紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


うまれる(うまれろ)

エモいブログを読んだらお返しになにか書かないとなぁとか思ってしまう。エモは波紋だ。伝播していく。春はなにもかも新しそうにみえる。おろしたての光、鳥のさえずりもデビューしたて、空気も入れ替わっている。窓をきれいにするワイパーかなんかですべて曇りがぬぐわれる(宇宙規模の業者がいる)。もう冬には戻れないのだ。毎年繰り返されるやりとり、実は円環ではなく一方通行なのだったよ!!!

中庭に桜が咲いているのが見えて、一年前にそんなようなことを書いたのを思い出す。「今が一番若い」みたいなことを書いたからおぼえている。今だって今が一番若い。しかし、一年前の方が若かった!!! なにもしなかった一年だと思いそうになるが、じつはそんなことはない、前進してますよ、と最近は思えるようになった。ただ歩みが遅すぎて焦れているのだ。自分の歩みより世界のスピードが速い気がして、または自分の思考が実際より速いんだろう。身体だけがとりのこされて焦れている。思考は自由だ。身体は不自由だと思ってしまえばその差に傷つく。

季節は一気に(本当は徐々になのだけど)塗り替えられて戻ることはない。そこに取り残される自分、を思うとかわいそうな気もするがかわいそうがっている時間もないなぁと思う。外は自由だとも思う。家の中は不自由だ。すべてのものが散らばっているから。逆宇宙みたいなエントロピー。空洞、ドーナツ、空洞、だ。ほんとうに空洞だったらいいのにな、坂本慎太郎が歌っていたな「おれは空洞、おもしろい」。実際はものがあふれている(ゴミ屋敷ではないのだけど乱雑だ)。いつか読んだ本(いつか読む本)、いつか着た服、いつかつかう道具、過去と未来の「いつか」を内包している。あーやっぱ宇宙やんね。部屋には時制がない。

うかれ気分につれられて外に行ってみる。外のものだって内部はからっぽ宇宙なのかもしれなくて、表面をなぞるときだけわたしたちは「現在」を感じているのかも。そう思うと皮はたいせつだなぁ。坂本慎太郎が歌っていたな「(新しい)皮膚が自分と世界をはっきりと分ける」。坂本慎太郎きいてばっかりだよ。いやほんと、坂本慎太郎はやばいよ。いいよ。すごくいいよ。