レイヤー「旅路」
京都写真をエントリしたらブログを読みあっている人で京都在住の人がメッセージをくれて、そういえば京都に住んでいるなぁと思い出した。わたしにとっては旅路でも、だれかにとっては日常なのだった。
今回はTHE 宿ではなく、町屋的なところに泊まったので旅と日常の中間の感じが強くあった。ほかに客もなく、夕食は街に出て定食屋ですませた。朝早く起きて鴨川を歩いた。それはいつもどおりの散歩のようであって、でももし自分が京都の住人だったらそうしただろうか。新鮮な目で街を眺めることができただろうか。帰ってくるのにタクシーつかっちゃったからやっぱりそれは旅先でのことという気もする。宿に泊まって朝食と夕食が出て、大きいお風呂に入るという旅行。京都だから寺社仏閣をたずね歩く歩行。
一乗寺に恵文社という本屋があって、有名なお店なのだけど(京都にはほかにも特色ある本屋さんありますね)、タクシーの運転手にそこに行きたいと告げたとき、「なんでわざわざ本屋になんぞ行くのか」というようなことをいわれて、それはまあそうなんですけどねという気持ちになり、本屋は観光地ではない(?)、しかし遠方から行ってみたい本屋もある。行ったからにはカフェめぐりをしたいという京都旅行もあるわけで、それは寺社仏閣と歴史がありすぎるから(修学旅行のメッカで教育の延長ととらえられがちだからかも)、京都まできて何してますのんのいう感じなのかもしれない。(論理の飛躍?)
京都イコール修学旅行的な楽しみ方(もちろんそれも否定しないんだけど)という方程式をとっぱらって楽しんでいいんよという気がした。ガイドブックに載ってるのは湯豆腐とか湯葉の店ばかりだけど、京都の人はほんとに毎日それを食べているのか、みたいな。おやつどきに角でクレープを買って食べるのは、出先でやるようなつもりだったけど(でも原宿に来たからクレープ食べるぞ! ってなってたらそれは観光性の強いクレープだ)。都市の特色と旅路と非日常と日常がからまって混ざっている気がした。しかも前文の「日常」はわたしの日常であって、その都市で暮らす人の「日常」は街と絡まりあって前提として底流しているようだ。人々は個で日常を持つ人であり、旅行者にとっては旅行先の背景である。わたしもどこかの街の背景であり、それはこの先移動するかもしれない。みたいなことを考えてたらわからなくなっちゃったな! ハハハーン。