紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


魔法はどこにいったのか

soulkitchen.hatenablog.com

 

スピッツもいいんだけど、ゆらゆら帝国の方がしっくりくるもので、「幽霊の結婚式」で「魔法は二度ととけない」とうたわれていて、「やまない拍手の中」、ふたりは森に消えるのだった。拍手がされている間は魔法はとけないのかなと思ってみたり。しかしこの歌詞はあまりに難解(なにも意味していない説もたぶんある)。でも、ぼんやりとゆったりとして童話の世界みたいな曲だ。少ない単語をそのへんに置いておく。

魔法の終わり、みたいなもんについてゆらゆら帝国は(坂本慎太郎は、かもしれないが)おそらく繰り返し歌っていて、「パーティーはやらない」では「祭」とよばれたものが(この曲に「パーティー」は出てこない)、「楽しいときにも忘れちゃいないさ 終わりが来ることも 戻れないことも」といい、「こんな日がいつまでも続くならいいけれど」と続く。でも「僕」は終わりがあることを知っていて、楽しさをかじったあとに死んでしまう、「祭は最初からなかったのさ」、独白。終わりがあることを知りながら踊り続けるのは、そうしないと魔法がとけてしまうとわかっているからなのだ、たぶん。「EVIL CAR」ではもっと直接的に「魔法は一度とけたら二度とかかりはしない わかっているから」と歌われる。だからかれは(EVIL  CAR?)は「何もかも忘れて」「この車で出かけようぜ」と子どもたちに語りかけるのだ。

なんていうのはこじつけかもしれないが、わたしの中ではそんな理解になっている。実際にその世界が眼前にたち現れてしまうと感動的だけどやっぱり悲しい向きもあり、だってこの楽しい時間は終わってしまうのだから。子どもたちはいつか踊るのをやめておとなになってしまうのだから。そんな気持ちでいたら、気づいたらひとりで夢の中で踊っているみたいになってしまうのもそれはそれで悲しいのだけれど。

最後期ゆらゆら帝国の曲で正式に音源にはなっていないのだけれど(ライブバージョンがある)、「いまだに魔法がとけぬまま」というまんまなタイトルの曲もあるのだけど、これは上にあげた曲たちとはちがって、暗い雰囲気で(といってもライブでは演奏をがんがん変えていくゆらゆら帝国のことではあるのだけど)歌詞も重苦しい。全文引用しそうになるので興味のある方はしらべてほしいと思うのだけど、これは「魔法がとけぬまま」そこにいたもののことなのかなと感じる。「城がなくなり野原がた」つ。そこに残るために必要なのはすべてを受け入れることだ。それが観察者として時間が止まったものの態度なのかもしれない。それはなんか『火の鳥』にそんな話あったよねみたいな気もするけれど。鍵をかけてすべてを見届けるというのはそういうことなんだ、と思ってみたりする。

脱線するけど、坂本慎太郎は「魔法の終わり」以外にも人間以外のもの(幽霊、宇宙人、死者、動物、ロボ等)になりたいシリーズみたいな歌もあり、なかなか興味深いよな。

ここまでずっとゆらゆら帝国の話をしてしまったけど、子どもたちとか若い人に対しての心持ちがまったく変わってしまっていて、これまではそれなりに対抗心とか苦々しく思うとか色々あったんだけれど、今回むかえてみて、すべてが「かわいい!!!」とか「(上手くいってもいかなくても)がんばっててえらい!」に集約されて、これはわたしの心が広くなったととることもできようが、なんかもう世代が違うゆえに「愛でる」という選択肢しかなくなっているんじゃないかと思うのであった。同じだじゃれで何回も笑ってしまった。ずっとにこにこしてたからいい人って思われたと思うけど、みなさまに対するチャンネルがひとつになってしまっただけなのだった。田舎のテレビなのであった(そういえば田舎のテレビって未だにチャンネル数少ないんですかね?)。そういうのをふくめて「大人になってしまった」って思うのだった。