紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


木は孤独、森はにぎやか

お酒の会のあとってとんでもなくさみしくないですか。といいながらこんな文章を書こうとしているのだから自分だって酔っている。

酒の力みたいなものは信じておらず、そこでされた会話は幻のようなもので、砂漠に水をまいてジュッてなる水蒸気みたいな気がして、とにかく甲斐のなさ。なんだか真剣な気がした会話も、盛り上がっているっぽい話題も蒸発してしまうんじゃよ。ジュッジュッ。

砂漠に水撒くことを徒労と思わずにいられれば、いつか森ができるかもしれないねみたいな話なのかもしれない。アナロジー。目の前のむなしさをにくむさかしらの短絡的かつ忍耐のなさを責めて孤独をうめるのもむなしく、やっぱ飲み会なんて行かないでええんやっておもってしまうよね。この時間には入浴してごろごろしてるのがしあわせだもの。しあわせってなんだろうね。ごろごろを思う家路。

パートナーと呼ばれてみないか

同居生活も10年をこえて、以前は「友人と住んでます」としてたのを最近は「人と住んでます」といっている。

四十路すぎて友人と住んでる人とはなと思ったり、人によっては「旦那さん」と同定してくるのもあんまり好きでなく、まあ要は周囲のせいですよという気持ちでもあるけれど、周囲を気にするのは自分なのでね、まあね。

そうすると最近は「パートナー(さん)?」といわれることも増えてきていやはや時代とか思うのだけど、正直「旦那さん」といわれるのと同じ気持ちになって、そうですねハハハという感じ。

気持ち的には同居している人間という、それだけの、フラットな存在というものは認めてもらえないのだろうか(好き人間と思うときもあるし、嫌い人間と思うときもあるのだけれど、もしかしてパートナーや配偶者にもそういうゆらぎが許されているのか…?(気づき))。男女(同性どうしでも)一組でいることが自然(理想? あるべき姿?)なのだろうかという疑問がある。

とはいえ10年超一緒に住んで、なんだかんだ共にいる人間という確信が出てきたのでそれがパートナーというものなのかもしれない。気があって一緒に住む人間くらいの意味でもよいなら受け入れていこうかと思ったり。

きみもパートナーと呼ばれてみないか?