紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


そういうことじゃない

人は承認欲求をかかえているんだと思う。やっぱり仕事についてばかり考えちゃうんだけど、肌も荒れてるし焦燥感もある。そういうのはけっきょく受け取り方次第なんだというどうしようもない正論刃みたいなのを持ちながら、大丈夫と大丈夫じゃないの間を行ったり来たりしている。もう少し深く考えてみたときに、会社や社会が人をどうあつかうか、みたいなことばかり考えてしまう。おととし、隣の席にいた人はみごと転職していって、万々歳にも思えるけど、そのブログをみているとなんだかなって感じもあるし、つらいつらいいいながら、わたしがへらへらしたコメントで少しくらいは助かっていたんじゃないかと思ったりもする(まあでも直接の薬にはなっていないわけだけど)。労働条件(枠組み)がよくても、中身が納得いかなかったら病んだりするんだろうし、わたしは、自分が繊細にすぎるからかもしれないけれど、社会や会社がよくなってほしいと思う。でも、自分が楽しいのは趣味のことだったりするから、労働者という点でなかなかしんどいようにも思う。

とかいうへんなはなし。

 

好きな作家が亡くなってからどうも四十九日が経ったので、暗めな服キャンペーンは終われるはこびとなった。そんなことをしている間にぐっと寒くなって、無印で買いたした黒のワンピースやボトムはでもいい感じだから着ていきたいよね。みたいな感じ。控えていた柄を着るのすこし緊張する。

 

あだ名をつけていた鳥たちもどうも巣立ち、たまに巣に戻ってきてはわれわれを微笑ませる。動物の子育ては短くて、そう考えると人間の育ちの終わりなきこと。そして社会や労働というシステムがわたしたちの「自然」となっていること。その複雑さに嘆息して暮している。こういう人が山で暮らすんだろうと思いつつ、いやそれは山暮らしをなめた発言とか思ってみたりもするのですが、あこがれたっていいじゃない。やってみなくちゃわからないんだから。

みたいな。

 

悩みは仕事のことに終始したりするんだけど、数年続けてきて、限界も見えてきつつあるけれど、上達(馴れともいう感じだけど)も感じている。これを続けていれば最適化されて、そこそこにストレスなくこなせるようになるんじゃないかという気もしてくる。でも、そういうことじゃないんだよなーとも思うんだよ!!!

 

ライブに行ってふわーとしているのがいちばん自分なのではという気がする。それと寝てるとき。いえーいいえーい。

 

はてなの★つけるときのエフェクト、昔よりかわいくなってる気がしませんか。

中年通信

なぜか脚や腰がかゆくて搔いているんだけど、心当たりがなくて、それは、冬が、くるのです。高保湿の化粧水をほたほたはたきます。という通信。

 

soulkitchen.hatenablog.com

たぶん前提がたりてなくて、『チェンソーマン』のアニメのエンディングが毎回ちがうアーティストなんだけど、真部脩一(さん)の曲があって楽しみなんだよねみたいな話だったりして(地味にこの脩の字なんなんだ出すの億劫だぞと思って真部真部言ってしまうのです)。そう考えると、最近まったくアニメを観てないなぁと思う。ティーンのころはすがるように観ていたけれど、その中に現在も残ってるようなものはほとんどなくて、あの時間と記憶はわたしだけのものになりつつある。し、あやふやになりかけている。なんてこった。

10月はぐわっとすぎた。遊びに行ったし、仕事もがんばった。ロボットになったみたいだったし、自分の好きなことを大事にしたりした。敬愛する作家が亡くなって、暗めな服着るキャンペーンはまだ続けているけれど、休日とか家にいる時間は免除している(自分に甘い性格)。出勤にかかわるときだけ追悼をアピールしている(誰に)。出勤を、労働を、自分のおおやけと思っている節がある。「黒いですね」と何度かいわれたけど、「まあ、はい」とか「そういう気分ありますよね」とか言っている。ふと、もういないんだと思うことはあるけれど、知人ではないし、日常的にメディアで見ていたわけでもなく、へんな喪失感だ。はたしてわたしはかれをうしなったのだろうか。副次的に、自分は小説を書きたいのだとわかった。それを自分のすきな人(たち)に見てほしいのだ。話すのは苦手だけど、文章を介してやりとりできる。空想とか理想について。かくして、アラフォーのワナビーだ。ワーォ。どうなるかわからないけどやってみないとずっとむなしいままなんじゃないかと感じている。


小説じゃないけど、短歌を送って読んでもらった。おもしろかった。作品は人目にふれたら半分は他人(読者)のものだから、あとからワーワーいうのはちがうと思っていて、でもじぶんはこう思ってつくったんだよねーということもいいたい気もした。まあいわなくてもやっていける性格なのだけど。
この歌にかんしては、読んだ人が「だざい」と「みしま」、そのふたりの関係をどう考えているか(または考えていないか)で受け取り方が変わってくるということがわかった。それが下の句にも影響するだろうので、なんとも判別しにくいことになるのかもしれない。……単なる景としてとれるのかとか、気になったりもする。自分が短歌で(この歌で)なにを表現したいのか、どう読み手や世界にアクセスしたいのか、みたいなことを考えた(当然のように考え中)。