紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


動物らしく

雨が降っていた。街はしずかで騒がしかった。あの人に会えると思った。わたしは彼女の目前まで行ったのだが、それは会えないのと同じだった。わたしたちは他人として出会った。はじめての会話をして、そのまま別した。何度だって出会えるだろう。不思議な電車はジェットコースターみたいに少し斜めにかたむいた。水辺の鳥が見えそうだった。見ない看板に錆びたビルが並んで積み木みたいな建物があってガソリンで走る船が白かった。甲板は屋根みたいで、人が黒く見えた。海を越えてテーマパークを眺めたことがあったのを思い出した。夕方の海浜公園だかの波打ち際。コンクリートは少しずつ冷めてきて奇妙なかたちのつくられた岩が並べてあった。少しもどってコンビニでアルコールを買ってきて飲んだ。海上のもやが急にピントが合って見える瞬間があって、どうやら観覧車、それでその近くの建物がなにかわかった。わたしたちの公園にも観覧車があって、乗ったんだったか忘れちゃったけど、こんな近くに観覧車乱立していいんだと思って混乱していた。路線図は入り組んでいて土地感覚がうしなわれていた。地図をみればよかったのに。そのあと今度は店で飲んで、それからがんばって帰った日のことたまに思い出すんだけど、あれはなんだったんだろうね。そういうことがたくさんある。知らないふりをしている。としたらずるいし、それを小娘に押しつけようとした人たちもずるい。わたしが悪いのかもしれないしそんなことはないのかもしれない。もっと自己主張していきたい。しかしそれが憚ることだとしたら気がひける。わたしは訓練されすぎているように思う。もし外国に住んでいたら全然ちがう思考をしていたと思えるし、自分が自分であることなんて幻想だ。可能性は無限、だからこそ現在の自分が唯一なんやで。けっきょくなにも定まらずくるおしい気持ちだけが募っていく。焦燥感だってある。でもそもそもの足場がないの。困ったな。言葉ひとつをよりしろにできないので、態度とか行動とか感情をだいじにする。それは伝わりにくく、ゆっくりじんわりと個人を介して伝播する。社会性のなさそうであるような。急激な広がりは望めそうになく、すこしの諦めと開き直りと。が焦燥感への解。