紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


社会と人間

前回の記事に書いたけど、実家に帰った。そして戻ってきたところ。先日の颱風で実家の近くの川が氾濫、家族は一晩避難して、帰ってきたら床上浸水だったとのこと。命があればと思うのだけど、命があるってことは生活が続くということなので、そうすると家が泥だらけだったり車が動かなくなってたりするのは困りもの。大きなゼロ/ワンを越えればあとは果てない慾の世という気がする。片付けの手伝いという名目だったけど、たいがいは終わっていて、なんなら以前よりきれいになっていたので笑ってしまった。これも何度も書いたけれど、実家は(そして現在のわたしの部屋も)ものが捨てられない系のごちゃごちゃした空間になっていて、むしろ片づける機会になったぐらいの気持ちもある(と言っていたけれど、それはひと段落したあとの感情なのかも)。泥がつけば捨てられなかった本も廃品に出してしまえる。みたいなやけくそ的断捨離マインドが横行していて、わたしもそこに参加して、元自室にひそむ過去のものを捨てまくったりした。

……みたいな話を職場の人にすると(この件にかんして融通してくれたりしたたいへん素敵な方々なのですけど)、なんかちょっとみなさん引かれますよね……。わたしの話下手ということも存分にあろうけど、もっと実際的な苦労話をききたいのかなと感じたりもする(想像だから本当にそうかはわからない)。だってこれじゃあ、普通の片づけの話ですもんね。

とはいえ、現地では(あくまでもわたしの知る現地ですけど)、どうにかするしかない感じがあって、途方にくれながらも手を動かしている。仕事がはじまっている人もたくさんいる。何かがあった後の世界は動いていて立ち止まってはいない。みたいなことを考えた。夕方のニュースはほぼずっと県内の避難や復興の情報をやっている。

帰っていた数日はよく晴れていて、それはそれで車が通るたびに埃が舞い起こって口を手で覆うのだけど、そんなことがあったなんて信じられなかった。ひとびとは買い物もするし、公園では親子連れが遊んでいた。ずっと健気に傷ついてもいられないのだと思った(とはいえ、依然傷ついている人を否定しているわけではなく)。

ほかに書きたいことがあったのだけど、雰囲気が変わるのでまた後日にゆずる。報告をしたら職場の人たちを戸惑わせてしまった件について、少し前に読んだ平田オリザさんの本で、それはもちろん戯曲台本についての文脈なのだけど、「社会的台詞」と「人間的台詞」があると書かれていて、かれらが求めていたのは前者(つまり、被害状況とか当時の経緯とか)をききたかったのに後者(個人的な内面や感情など)が返ってきてとまどったのかなとか思ったりもした。その件にかぎらず、この二者の取り違えをわたしはしょっちゅうしてしまっている気がする。