紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


正月を味噌に/たのしい知識

家に山芋があって、ヒナ氏がそれを酢の物にした。柚子が入っていたので香る香る。柚子は正月の香りで、台所は正月の雰囲気をおびた。実家では雑煮に柚子が入る。柚子をただ朽ちさせるのは勿体なく、調べたら自作できるらしいので柚子味噌をつくることにした。いちおうヒナ氏に了承をとる。もしほかに使う予定があったらすまないからね。それで快諾されて本日の午前中は柚子味噌をつくるために費やした。もらった大根がちょうどあるから柚子味噌のふろふき大根をするのである。こんな食材のリレーは上手くいっているときは楽しいのだった。

 

文章の校正を頼まれることが時たまあって、それは間違い探しみたいでわりと好きなのだ。一文を簡潔にとか、指示語を確定させるとか、表記ゆれを直すとかいろいろ気をつけるけど、けっきょくは書いた人自身の癖とかいいところとかその人らしい箇所を活かすようにする。

厳格な校正のルールというものがあるのかもしれないけれど、すべてを「正しい」文章にしてしまってはしょうがないなとか思う。頼んできた人はわかりやすくしてほしいとか言うけれど、このわかりにくさが「らしさ」なんじゃないかな。でももしかしたら厳格なルールにのっとって直したうえでなおにじみ出てくるのが「らしさ」なの?

厳格に、はけっきょくやり通したことがないのでわからない。この人やたらカッコでくくりたがるなとか、わたしならこんな書き方しないなーとかあるけど、それを直していくとわたしの文章になっちゃうものな。そういう頭の働かせ方をしているときは、イタコの気分でやっている。その人になりきって文章を直している。

 

同居人が本当に意味の分からないことを言ってきたときに(意味がまったくないことはわかった)、わたしはそういう部分を好ましく思って笑うけれど、いつか、未来のわたしは、それに耐えられなくなるときがくるのかもしれない、とか思った。あばたもえくぼのようなもので、嫌になってしまえば、それまでのえくぼが翻ってあばたとなるかもしれない。笑わせてくれるから好もしいわけではない。いや、やっぱり面白いから好もしいのか。とにかく、未来については責任が持てない、というのが正直なところだ。残念ながら。

ということをしみじみ言ったら、「もうしません」とか言われたけれど、そうじゃなくて、今はそうしていていいのだ。現在の行動の積み重ねが未来をかたちづくるのだけれど、こうして未来を語っている時点ではそれに関連はない、というようなことを。言ってもしかたないので、今を生きるしかないのだなぁ。とか。

 

もっともっと柔らかく骨もなく生きたいと思う、一方でもっとしっかりしなくてはいけない、とも思ってしまう。べき思考(○○するべき、○○しなくてはいけない)は正しくない、という方針なのだけど。楽な方へ行こうとしているだけなのだろうか。ゆらぐ。