紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


永遠に風呂に入る

久しぶりのときは季節の描写から入る。ますます寒くなってきていて、それはもう十二月なのだから当たり前だ。寝具の丸まり具合からも冬が想起される。毛足の長い蒲団カヴァーとか着る毛布とかが落ち着いた色で、蒲団の山脈はふかふかにコウヨウしている。色味的にはベージュ系。電気ストーヴ、加湿器も出した。腹巻もしてるし、五本指の靴下を重ねて履いて、その上にまだ湯たんぽも出せるから大丈夫。冬の選手層は厚いよ。

しんしんと底に沈むように夜が静かになって、空気が冷えてすっきりとしてくる。この冬の空気がいっとう好きで、どこまでもどこまでも身体を刺して、寒い寒いと繰り返すけれど嫌ではない。わたしたちは仲間だから。日が出ていればあたたかで、しかし優しくはなくどこか距離をおいた感覚であって、午後をまわったあたりの光は黄色がかってそういうカメラのフィルムを思い起こさせる。目を細めて光と影を確認する。様子は変わらないのに満足して歩ける。

 

▼書式なし

WordとかEvernoteとか便利なの知っているけどメモ帳が好き

 

『モモ』を読んだ。何度目かわからないけど、でもこの十年は読んでいないはず。けっこうすぐにウッとかうるうるとしてしまう(感受性が豊か!)。なにがしかを書かないことには次にいけないと思って読書がとどこおっている。本当に本当に大事なことが書いてあるのだった。モモのところにやってくる人形のこととか、子どもたちが学校(のようなところ)で「遊び方を学ぶ」こととかがかなりクる。いろんなことはあるけど、未来は良い方向になっていくんだというような気持ち、十年前とか二十年前の気持ちが折られそうになる。この皮肉みたいな文章に現実の方が近づいていくのだから。

灰色の男たちは(人間たちの)時間を殺して葉巻にして摂取する。「死んだ時間」「生きてる時間」、文章でも同じようなことが言えそう、とか思った。年齢を重ねてわかるようになったこともあるけど、大体が昔のような気持ちで読んだ。

モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

 

 

穴埋めに短歌の本をまた読んだりして。わたしは短歌の本を二冊しか持っていないから、その片方を。上手な上手な上手な上手な上手な短歌を読んで、ふーってなって、自分の短歌を取り消したくなったりするけど、それはしませんと。むかーしにも自分でつくったものを一週間で取り消して他にすり寄ろうとしてめためたに叱られたことを思い出す。怖かったけど、教えは生きてます、先生。

 

なにものでもない、ということについて少しわかりかけたのだった。ただし、説明なしに「なにものでもない」をやると、嫌がられたり他者の目が冷たかったりするんだなぁということも想像できたので、トレードオフというか、下準備が必要と思った。理想は根回しなどなくても受け入れられる世界、ではあるけれど。それはどうにも難しそうだった。そして、人々のなにものかでありたがることよ! 役割とか意義とかにとらわれすぎている。窮屈窮屈。わりとやわらかい側であるはずの人々なのに。こう感じるようになったのは『モモ』を読んだのと関係がある気がする。

 

昔に考えた「宣言」が体現できている感じがしてうれしい。

 

悲しみ、ということについて考えたときに、大きく、死とか死別を掲げる人たちの話をきいて、現代では「身近な人の死にふれる経験が少なくなった」という話を割とそのまま素直に受け入れられたのは、わたし自身が身近な死を経験したことがないからで、それはたとえば以前は一緒に住んでいた祖父母も今では遠くに住んでいることが多く、「身近」の範囲が狭まったということなのだけど。医療の発達とかもあるのかもしれない。だからこそ、いざ死にふれたときにどう対処していいのかわからない、集団もその方法をもたない、というような。現代において「葬儀」「お別れの会」が再構成されているという話。それと併せてこのあたりはスピリチュアル界隈に任せておいた方がいいのかもと思う。意識だけでは解決できない分野なんじゃないかな。

 

「病気を治してくれる人は誰でしょう?」ってクイズに(こたえ:お医者さん)、「病気を治すのは自分でしょ!」ってこたえた。

 

 乾燥が気になるのでヒナ氏の馬油を借りて塗りたくっている 

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よく考えたらくまが馬の油ぬってる!! と思って笑う。