母親たちのJAM
「つまり、こういうことだ」
と書き出して、指をとめる。どのように書くべきか。しかし、こう書くしかなかった。
「つまり、この時期になると、"ハハオヤ"という生き物は、得体のしれぬ植物を砂糖で煮詰め、それを離れて暮らす家族に送ってくる、、ということ」だ。
「はじめは、僕でした」
ひとりが毛むくじゃらの手をあげた。じくじくとしたオレンジ色の物体の詰まった瓶を掲げてみせて、「これは××××だそうです。ママレードのような、トマトのような、しかし、なんとも、罪深い味なのです」
会員たちはそれぞれにふぅっとため息をついた。「「「罪深い」」」、その形容に心当たりがあるものも多かったのだ。集まっている人々は何かしらが入った瓶――大きかったり小さかったり、色や粘度もさまざまな――をかかえて、椅子に腰かけている。誰もがそれを持て余しながらもうっかり手放せない、妙な堅さのある面持ちでいる。
「ワタシは、、」と次の発言者ははじめ、すぐに言いよどんだ。紫色の水みたいなものがつまった瓶はありきたりのものに見えたが、傾けても色の濃さが変わらず底が知れない墨汁の昏さを思わせた。「見た目は普通なんですけど、こう、黒くて、、普通は食べない木の実なんだそうです」
「「「普通は」」」「「「食べない」」」、会場にはまたも嘆息が漏れ、収束していく。それは合言葉のようなもので、各人が手にしている物だって多かれ少なかれその気配を持っていたため、それは同情にも憐憫にも似た安堵の波として広がり、受け止められて滲みこんでいった。
つまり、と書きはじめてまた止まる。何がつまりなのか、なにも詰まっていない。この世は不思議だらけだ。ただ、大勢の"ハハオヤ"が、食べられそうもない植物をせっせと煮詰めて瓶詰めをしている。いずれも台所のプロだから瓶の消毒もお手の物だ。工場のような家内制手工業、ひとりの手による大量生産が発達した流通網を使って、各ムスコやムスメに届く。"母親"たちは満足げに笑って、冬眠でもするのだろうか。その生態はいまだ解明されていない。