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紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


定型ワークス

少年少女自然の家的な施設に行くことがあって、そこはそこかしこに施設利用者の感謝の声が掲示されており、眺めているとそれはいくつかの文章の組み合わせによってできていた。

つまり、①〇月〇日にお世話になりました、②(アクティビティ)が楽しかったです、③(食べ物)がおいしかったです、④(状態をあらわす形容詞)過ごすことができました、⑤ありがとうございました、の中からみっつが入っている、みたいな感じで。それはそれで興味深かったのだけど疲れてしまい、しかしひとつだけ目をひく区画があり、そこには小学生たちの感謝の五七五が掲示されていた。そこにもいくらかの類似や規則はあったのだけど、それを越えてなお自由さ唯一無二さがあり、そこだけはすべて目をとおしてしまった。多くの文字数が書けるよりも十七文字の方が自由に個性的に表現ができるということ、皮肉のようだった。少年よ(少女よ)、定型をいだけ、と思った。

俳句で思い出すのは小学校の国語の授業で、秋をテーマに一句詠もう、だったか定かではないけれど、わたしは林檎と梨という単語をつかったので、季節は秋だったのだろう。転入した先の学校でわたしはまったく馴染めてなくて(もう半年は通っているのに)、いや本当に馴染みたくなかったのだけど、同級生たちは似たような語句をつかって、似たような五七五が教室の後ろにならんだ。

そのとき自分のつくった十七文字を今もおぼえているのだけど、わたしの句の右上に担任が丸を、もしかしたら二重丸をつけた。ほかのみんなは無印だ。最初の五文字がよかったのだ、と子どもごころに思った。たぶん小学生があまりつかう語ではなかった。その横並びたちとは異なるものというしるしをつけられて、当然だという気持ちとそれを教師に見つけられたことを猛然と恥じた。どこにも行けない一年間だった。

それでも現在は短歌に興味があったりして、そしておずおずと詠んでもいる。感じたことを三十一文字にというのは苦手(というかよくわからない)で、題詠といわれてはじめてなんとか立ち上がれる感じだ。

はじめに思いつくときは断然に破調で、いやもう破調カッコイイっしょ定型とかナイっしょとか思うのだけど、一日経ってみると定型はそのまますっと起立していて、破調はなにがいいのかぼやけている。ので、やはり連綿と続いてきたものは続いてきただけのことがあるんだなぁと感じ入っているところ。それがわかってきたところ。魚を干物に、花を押し花に、思いつきを定型に、ひと手間かけると生き延びるのであった。