紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


大人になっても

物語内人物の悲哀みたいなことをたまに考える。ふるくは手塚治虫の短編で、本当は世界なんてなくてここは舞台なんだと思っている話。今ここ、しかないからカーテンをしめた窓の向こう側はなにもない暗闇だし、突然皿を投げてみると効果音が間に合わないから割れる音がしないのだ。自分以外の人物はそれを知らないもしくは知っているが役を忠実にこなしているのだ……。作品名わからなくて(自分の検索能力試すチャンス)本当にあったのか本当に手塚治虫なのか怪しいけれど(でもありそうでしょ)。そのシーンや考え方がたまに自分に去来する。たぶんそういう哲学思索もありそうだ。それをもっと強かにやってるなぁと思うのが筒井康隆で今は『虚人たち』を少しずつ読んでいるところ。

 

聲の形』を観ました。映画の方。苦手だし不得意なんだけど書いちゃう。いろいろ皆さんご存知かと思いますが。誰も悪くなくて、でも誰かが悪いとしたらみんながちょっとずつ悪いというか。どうしようもない感じだった。それぞれが自分の立場と個性があって、観てる方はあの時ああしてたらなんて考えたりするけどそれは絵空事だなぁと思った。自分の領分でしか生きられない。感想文とかで「もし~~だったら」みたいなの定型パターンとしてある気がするんだけど、あれって無意味じゃないのかなんて思っている。たらればの話って強いところから無神経に語っているだけな気がする。

小学校のときの体験があって、高校生になったときに実はそれを皆ひきずっている。主人公(たち)が昔の仲間をたずねていく(というと大げさだけど)という話。高校生になってわかることもあるし、それでも承服しかねることもあるし、全然消化しきれてないけど前に進まないといけないと皆うすうす思っている。大人になったら飲み込めることもあると思うけど、高校生の自由な時代だからこそ丁寧にめぐっていくことができると思った。大人になって解決するというのは、忙しさにかまけてなあなあにするということ(本意でなくても)という気がして、辛いだろうけど、傷つくだろうのに、自分たちと自分たちの過去のことと向き合うのがよかった。そうできてよかったねという気持ちが強いのかも。

西宮さん以外の三人の女の子、ウエダ、サハラ、カワイは三様の対応をするんだけど、三人ともわかる、、というか誰が正しいなんてやっぱり言えないのだけど、サハラの優しさが「いい子ぶって」と言われる残酷さ(でも半分は真実かもしれない)と耐えられなくて学校に行けなくなってしまう弱さ(ずるさでもあるけど、本人が一番わかっているだろうな)、ウエダの真っ直ぐさが人をずたずたにしてしまう刃になること、本人はそれが正しいと正しくないのやりとりがあることを多分わかっていて、それでも自分の思った道をとる、カワイのずるさ! ずるさではあるけど、本人の中では過去はそうなっていて、それは自分を守るためなのかもしなくて、そこを糾弾する話ではないから(たぶん伝わらなそうだし)、自分とは関係ありませんっていう顔をする身の振り方もあるんだと思う。大概の人がそうするような気もするし。三人ともひどいし優しいし自分に正直で、それがまわって人も自分も傷つけてしまう。うまくいかないのだ。

ヒロインの西宮だって悪いところがある。障害ではなく彼女の性格に。それは彼女の障害に起因するものかもしれないけれど、その話をしてもしょうがない。自分に優しくしてくれる(本当に?)石田に告白すらしてしまう。それはクライアントがカウンセラーを好きになっちゃうあれではと思ったりした。

こうやって書いてみると救いがないねー。そんな中でも各人が気にしていたことを、心にひっかかっていたことを(もう忘れて過去のことにしていた者もいるかもしれないが)わざわざ掘り返しにいく、傷つきにいくっていうのは前向きだと思った。これ三段落前に書いたことと一緒だけど。でもやっぱ小学校のときに大人たちもうちょっと何とかできただろ、と思ったりはする。そりゃあ大人は子どもの延長だけど、大人には責任が発生する。それを子どもたちに押しつけて尻ぬぐいをさせていると思うとなかなか辛い。これを書く直前にズ氏の記事を読んだけど同じようなこと書いてありました。だよね!!!

じゃあなあなあにしない大人になろう、みたいなことを思うんだけど、もうどっぷり大人につかっていて、なんなら大分なあなあにしてきてるし、さて、明るい未来、あるんだろうかという気持ちもしますね。