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紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


風呂場の汗とコロッセオ

お風呂で汗をだらだらかいて、最近のわたしは入浴後に2キロ程度軽くなっていて体重の数パーセントを自在にあやつれる能力者という妄想。汗をかいたあとのべたつきも風呂場ではいっさい関係ないし、顎から首筋をつたって湯船に合流する汗達をにんまりと見送る。あと一滴、もう一滴と願ってしまい、風呂から出るのが遅くなり、いつかカラカラのミイラとなって発見される可能性がある。でも本当に2キロってあなたどうかしちゃってるわよ、とか。

人間関係ってすごくインスタントになっていて、誰かの人生から急に消えてしまうこと、できる。本当はできるわけないとわかっているけど。SNSでブロックしている人のリストをながめて、または更新して、わたしはこの人たちと交わることは一生ないのかしら。関係を切断しました、ということを可視化できるというだけか。あそびがない、ということかも。理想をいえば、やっぱりぱっといなくなりたい。記憶からも消え失せて思い出話もしてほしくない。と思ってしまう。昔の職場の人から声をかけられたりするとそれはそれで嬉しかったりしてしまうから中途半端な願いであるけれど。それは感傷、とつぶやいて楽しんだ時間ごと箱に抛っておける。

大人が大人げなく喧嘩するのって近ごろあまりない気がする。少なくともわたしの見える範囲では。現代人の規範というか、喧嘩をする大人は粗野であり、技術が発達し人間は洗練され、争いごとのない世界に向かっているという気がしていて(未来は良くなっていくもの史観というか)、すると喧嘩する大人カルチャーって減っていくはずだからみられる機会をだいじにしたい。

詳細はやっぱり書けないけれど、そんな話を偶然ふたつ知ってしまった日には、自分は直接関係ないというのが大きいのだけれど、いいぞもっとやれと楽しくなってしまった。コロッセオとか思ってるのかもしれない。だとしたらやっぱり、性格の悪さ。自分が渦中にいたらげっそりするだろうけど。

諍いを事前に回避するのが人間としてスマートという考えが前述の史観にはふくまれると思うのだけど、全部が全部そういうわけにもいかないし、ワクチン接種みたいに喧嘩の経験は少しはあった方がいいだろうとも思うし、なんかもう前述の史観があまり正しくないんですかね。あーでもやっぱりインターネットばっかり見てるからかもしれない。本当は外の世界は争いと暴力とその後の融和で成り立っているのかもしれない。とか。人間って本当によくなる(なってる)んですかね。