紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


現代人、逆立ちをする

宗教家からメールがきてて、わたしたちみんな仔羊で、こうしてすくってほしいのかもなと思ったけど。でも最初その人だと気がつかなくて、べつの人を想像してたから、わたしの信仰心もご利益もゼロみたいなもんなんだろう。なんだかんだ科学を信奉している現代人、逆立ちをする。逆立ちってすごいらしいと書いてあったのを真に受けて、蒲団の上で妙なポーズをとっているのを同居人に訝られ、やめなさいといわれる。両足を宙に浮かすのに思い切りが必要だった。今夜は壁を補助にやってみたらばできて、頭の天辺にしかし今はここが地球との接点で一番下なんだけど、そこにすべてが落ちていく。首をのばしておくべきかわからぬまま、めり込んでいくのをゆるすべきだろうか。耳なりがきこえ、足の先からあからさまになにかがひいていくのがわかった。血液って一方向に流れているんだろうか。そんなに全体的に引力にしたがいて下がれるもの? いやそれでも心臓はポンプして血液を届けているはずと思うのだけど、実感として完全に血がなくなっていくのを捨ておけず、わたしは姿勢をくずし、地を這う虫となった。この壁の向こうにやめなさいといった同居人がいるぜ。ばれないようにしてやったぜとにやにやしてしまう。それでなんの話だったかというと宗教家のことだけど、わたしの認識上ではその懸念は間違っているが、わたしではないべつの部分に問題があるのであった。その旨、そういえば「旨」って「うまい」とも読むけれど、「旨」っていうのは「件」というときより旨味があるんだろうかみたいなことを考えながら、やっぱり多様性は集団に弾力と強さをもたらすのだろうなと思ったんだった。昨年解雇された(比喩ですが)かれらは明らかに異端児であり(ほかの人々は追従者またはどっちつかずの日和見人であった)、そのことにより集団は純度を上げ、やりとりは円滑にいくようにみえたけれど、やっぱりなにか違ったのだった。ある種の”溜め”のようなものがなくなり、水をたくわえておけなくなった感じがする。まあでもわたしも日和見してたのだから(言い訳がゆるされるのならば、とにかくわけがわかっていなかったのだ、そのときは)、なんとも言えないことである。掃除を続けていくといつか自分しか捨てるものがなくなってしまう。べつにわたしは捨てられてもかまわないというくらいには思い入れが目減りしているし疲れてもいる。人が変わってしまうことを考える。好ましい変化、好ましくない変化、判断は結果論だったり、個人の主観であったりもする。大きくなり続けることはなかなか難しい。では質を上げようといった人もわたしは知っているけれど、それは(個人の)哲学みたいなものが関係する気がする。よくわからないけれど、その人は悩んでいた。どう結論づけたかは知らない。無責任な人間である、わたし。他人をゆるせよ、我をとおせ、というようなことを考える。また逆立ちをしよう。