紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


迷子

なんでも大げさに考えてしまいがちなのだけど、大きくいえば世界の、小さくいうと人間のゆがみに耐えられない節があり、繊細な感受性! と言ってしまえればいいのだろうけれど、それは自分にもおよび、ていうかけっきょくわたしは自分自分で他者のことなどぜんぜん好きでないのだろうな。しかしその次の瞬間、生命すべて尊びたくなる。少し前までは、ひとびとのゆがみを受け入れてこその人生、礼賛、ワーワーって思ってもいたはずなんだけど、離れてみるとそのゆがみはやべーやつじゃない? 特殊じゃない? 病的じゃない? という気もしてくる。現在のわたしの生活はとても静かだ。波風って立たないところでは立たない。

またべつのレヴェルで、正常とはなんなのか、自分が直面しているものは世間一般で起こっていることなのか、特殊なのか、中央値は、最頻値は、という疑問が出てきて、わたしはなんにしてもまず一般を知りたがる。一般とできごとを並べてみてそれから語りたがる。するとこれは特殊なようにみえるけれど、ありふれたことなのだと言える。こことここが特殊だけど、それを除けばよくある話だねと言える。わたしはそういう話法を使いがち。なんでも般化したがる。一般がそうなら受け入れられると思いがち。

特殊だったから嫌っていいとか好むべきだとかそんな考え方にも疲れてしまって、べつの止まり木をさがしているような。ある話法をしばらく使って飽きてしまえば、次の思想に遷る。何が正しいかわからないし、般化のしすぎで目の前のことを直接うけとめられない。そんな疲れを感じている。ような気もする。

 

それでもまあまあ生きている。

 

ちょっと前に仏像がいっぱい飾ってある展示を観にいって(語彙よ)、もちろん昔のことだから今とは考え方も違うのだけど、仏師たち、はたまた時の権力者、おそらく下々までも仏というかまあ神的なものを信じていて、美しい、もしくは強そうな像をつくって飾って、仏像の中には経文とか願いをこめたなにがしかを入れてあったりするの、すごいよなあと思って(語彙よ)、それしかないんだなあと言ってしまえばそれは少し嘲りをふくんでいるような気もするが、でも本当にそれだけ、人間動物植物のほかになにか違う存在を信仰する、すがるといってもそれだけではないし、生活の一部でもあったし、美術でもあったし、自然にそこにいるのだけど、でもそれは超自然だし、という不思議な気持ちになってしまった(語彙よ、と思う)。

 

久しぶりに三島由紀夫を読んでいて、それは別の意味で「語彙よ」って思いますね。

 

カレーって甘いとか辛いではなくて、スパイシーかそうでないか、って感じがするね。スパイスがきいていると結果的に辛いのだけど、一般の激辛とかいう辛さとはまたちがうよう。

 

仏像は母と観にいったのだけど、母の母が仏像好きで(阿修羅像の写真を部屋にはったりしていた)、ぜったい影響されている、と思った。それとは別なのかもしれないけれど、年齢を重ねると仏像に興味が出てくるんだろうなとも思う(年齢層高かった)。わたしは絵の方がすきで、自発的には仏像(ていうか造形的なやつ)を観にいかないけど。観たら観たで思うところはたくさんあったので、そのうち自発的に仏像を観にいくようになる気もした。こうやって受け継がれていく。あと、立体の展示は絵と違って動的でおもしろかったな。展示を出たあとのミュージアムショップもいつもと違って、水晶とかトルコ石とか売ってて露店っぽさあって(仏像関係ないのよ)おもむき深かった。

 

祖母のこと、ああだったこうだったって言えるようになって、こうやって癒されていくんだって思ったりする。