紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


いよいよ、身体

 

何回か、というか何年もやってわかったことがあって、それはわたしが年齢を重ねたこととも関係あるかもしれないけど、野外で生活する場面で子どもたちはさぼりたがり遊びたがる存在なのだけど、それは自然なことだよねという境地。まず、さぼりたがるという語が不適切で、やることがわからないのだし、「遊びたい」の方が強いしはっきりしているからそれをやらないだけなのだ。仕事があり、やり方が明確であれば、「やってみたい」はそちらに向かうのだ(それを最後まで続けるかはまた別の問題で)。

やっぱり顕著なのは食事をつくる場面で、なにをどうするか、食材をどう切るか、味付けは? 水加減は? 火をおこすにはどうするか、ただおこすだけじゃなくて調理の進み具合とあわせなくてはならない、火加減は適切か? 種種の面倒なことを同時に適切に処理する、全体像はみえづらい、自分だけでなく他の人間もいて、かれらがなにを考えなにをしているのかわからない、ってなかなか困難な場面じゃないですかね。それで先般の「伝えるって難しい」があるのかも。日常生活で伝えることの困難さが何倍にもなっている。

 

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そんな中でも子どもたちががんばっていることを信じられるようになった。たぶん。それでも、「疲れた」「休みたい」というのっておそらく本当に疲れているのでじゃあそこは大人ががんばるわという心境にまでなったのだった。だれだって疲れてるときは優しくされたい。

わたしの話になるけれど、自分の「疲れた」「休みたい」をさぼりだと受け止めがちなのが、いよいよ厳しくて最近はそう思ったら休むことにしている。一日寝て過ごすばっちこい。罪悪感はあるけれど。他の人にさぼりと思われてるのかなとか思うけど。そこは自分の感覚を信じて甘やかしてあげたいという感じなのだった。自分ががんばり屋だってことを認めてあげなくては。というのが自分の外側にも広がった結果なんだと思う前述の心境は。自分の感覚を信じられなかったらなにを基準にしていけばいいんだろうか。ってなんかAI時代の到来を前にひとりだけでも時代を逆行していきたい所存。あー山とかで暮らしたいですね。