紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


予感はいつでも大切に

つねと違う散漫がおそってきていて、なにも実像をむすばない。それにしても暖かい日で夏に足を踏み入れていると思った。その前に梅雨があるとはいえ。アジサイが葉と同じ色の花を準備していてあとは塗るだけだ。いわくのある街にまたたどり着き、駅前のたい焼き屋が空き店舗になっているのにおどろき落胆する。商店街を歩いているとたしかに知らない店があらわれて、知らない街にどんどんつくり変えられていく。記憶の中の街を塗り替える塗り替えろ。新しい店舗、前になにがあったか思い出せなくて、隣との隙間に空き地が見えて、お店も新しい木がメインに見えて、種から生えたみたいだったよ。植物っぽかったよ、きみ。にょきにょき。

駅の連絡通路で満面の笑顔の子どもが駆け抜けて、切ったスイカの赤をビニールに透けさせていく女の人がいて、老人は駅までに必ずベンチで一休みをした。空気は湿気のせいか厚ぼったく濃くて、光はにぶく強烈になにもかもを殴って影を落とさせた。暴力的な夏の入り口で、でも生命は、つまりわたしは地面と接した足元からエネルギーをのぼらせて立っているんだった。地球からのエネルギー。これは最近読んでる本からの受け売りだけど。特定の語彙が持っている意味論的な意味を解体してとっぱらって自分で意味を見つける、というか身体がなにを言っているか目をつぶってきいてみる。夏はそんなのに最適な季節なんだろう。エネルギーが濃いから。スーパーからの空気は鋭く冷えていて、入口の監視モニタは黄色く水槽の中みたい。こんな世界でおよいでいるのかもねぼくらそうかもねそうだよね。

おんなじことでも人によって立ち位置によって見えているものが本当にまるっきりちがって、真実の意味がどんどん変わっていって、そこに立ち会って感動すらある。わたしだって自分をよくみせるために叙述し口にしたことが、わたしの真実がだれかの真実と相反し、この世のゆがみに少しだけ加担する。あまたあるこのゆがみ、たぶんかわいらしいものなんだろう。

自分のなかでゆがみきっていた認知がするっとほどけて、こんなにかたくなじゃなくてよかったと思ってみて、それは自分をいい人にしようという気持ちなのかもしれないけれど、そしたらわたしは”いい人"が人間の自然だと思っているってことなのかな。しならせた植物が限界までいくともとに戻るように。そんなのもやっぱり偽善っぽくて、同情でもいいからしてほしいとか、ほっといてほしいとか、もっとべつの考えがあるのかもとか、けっきょくは本人にきかなくちゃわからない(言葉はうそをつく問題もあるけれど)。それを怠ってああだこうだ考えてみるのって偽善っぽいとか思って、やっぱりその人のことをこれ以上考えるのはよそうと思ってしまう。乗ってくださいお嬢さんとか言って、自転車の後ろにのせて駅まで送ったりして、ゆっくりとエレベーターに乗り込む様子を、あんまり綺麗でない駅で、でも天気のいい日はそれでも綺麗で、そのときのわたしはなにをどう考えていたんだっけ。どうしても思い出せない。