紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


さんごダイヤモンドパールプラチナ……

わたし。と可能性としてのべつのわたしがあって、どちらが正しいとか間違っているみたいなことはなくて、単に可能性であり、わたしの選択なのだ、と思った。上手くまとまらないけどそういう感じがはっとした。現実のわたしはそのまま目前の書類をチェックし続けていた。

ライヴハウス、たばこの煙が目にしみるのと大音声がにがて。冷房のききすぎている。途中で出てきちゃったのはわたしが不義理な客だからではなくて、設備の問題である、というようなことを言いたい。ライヴハウスまで来て音がうるさいとかなにいってるんだという感じもするけれど、バーカウンターで指差しだけのやりとりをする。シャンディガフ、のくちびるを読んでくれたお姉さんはすきになった。

シャンディガフはうすい金色できらきらしてみえる。音楽、なんで音楽をやるのか。おもな生業があって、それでも片手間に(とはいえなかば本気で)練習をし、演奏をする。もしかしたら自作の曲かもしれない。好きなことがありすぎるのかもしれない。人生は長いけれどやっぱり短くて、寄り道してる暇なんてないのだけど、生きること自体が寄り道な気もするし、評価なんて後付けでしかないし考えていたらいつまでたっても足をふみだせはしないのだった。

友だちの子ども、真っ赤なシャツを着ていてよい目印だった。なんでもおもしろいようでずーと笑っていた。誕生日に買ってもらったというデジカメでなんやかんや撮影していた。こんな小さな人の前でもじょうずに会話ができない自分を発見し、子どもなら相手にしてくれるとか思っている自分が恥ずかしくなるのだった。でも、子どもの方がなにかとまじめだよねぇ。言葉遊びみたいなうそも見逃さない。もっと優しくしてほしいのであった。