紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


麻薬になりたい

わたし、麻薬になりたい、とか、爆弾になりたい、とか思っていることをだれも知らないんだなと思ったら可笑しい。でもそれは誰にも言っていないし、ふだんのわたしの様からは及びもつかぬことなのだからそういうことなのねと腑に落ちた。考えていることが周囲に漏れているような気分があって、でもそんなわけないのだよね。めちゃめちゃな乖離。でも、ずっと見てるとその人がどんな人かってわかっちゃうような気もするのだ。その人も爆弾になりたいとか思っているんだろうか。

おおらかな気持ちでいたいというのもあり、どこに行くかわからない話もフムフムきけるのが、それに自分がからむのかと察知してからの変わり身がすごく(早く)て、結論はと言ってしまいそうになって、やっぱり外野からヤイヤイ言うのと当事者がなにか言おうとするの違うなぁと思ってしまった。もしくはわたしは何物にも巻き込まれたくないのであった。他人事だからおもしろく、え、その矢印わたしに来るんだと思った瞬間に、まず自分を見つめよ!!! と言いたくなった。ひどい話だと自分でも思う。

ちょっと前に撮った写真を知人にみせたら、「ちょっと狙いすぎだね」とか言われて、不評だったんだけど、落ち込みもしたんだけど、でもたしかに「狙った」写真だったりしたから、それが伝わるのすごくない??!?!? って思っている。写真には意図があり、それがわかるのだとしたら、写っているもの以上を伝えることができて、それも文学、というか言語みたいなものなのかもとか思ってみたり。これも現代的な、とか近代的な、鑑賞作法なのかしら。

例をあげると、VOWみたいなの好きなのだけど、あれはそもそも内容を伝えるのが本来で、でもそれがコンテンツ化することによってもうひとつ外側に意識ができたというか、その意識が「狙った」のある場所なんだと思う。当初(1980年前くらいらしい)と現在では「写真」に対する意識も違うだろうし、なんだか難しいんだけど、VOWにかぎらずいろんなものがこういう流れで鑑賞され方が変わっているんではないかと想像している。そういう話もききたいんだけど、どのへんをあたればいいのだろうか。VOWを例にしたの正しかったんかな。写真のこととVOWのことはまた考えていこう。