普通に話がしたい
前回が自然との対峙であったとすれば今回は他者との対峙であった。近ごろはめっきり会う人も少ないわたしであるが、登場人物が十数倍になった。階段を降りた地面から地下フロア、もうひとつ上がって地上から玄関に入り、二階、三階までだから5階層あってそれがそれぞれに広いから、3DKのわたしとあなたの二人称の生活とくらべるとそれはもうべらぼうに広いし大きいしがちゃがちゃしている。
はじめて一日くらいはその疲れと生来の人間嫌いが首をもたげてきて嫌だな早く帰りたいとか思っていたのもだんだん慣れてきて、たまには大人数の生活もいいものだとか思って身体も思考も(最)適化されていく感じ。人間の適応力よ。それまでのしんどさを裏切るように身体が適応していくのは笑ってしまうが嫌いではない。そういうのに敏感でありたいとか思っていたけれど、もしかしたらほかの人々はそんなに深く(しつこくねちっこく)考えてないんじゃない? と思ってしまったら、少しshocked、隣人がなにを考えているかなんてそりゃあわからないものではあるのだけれど。これはこうあれはこうと決めつけて壁をつくっているのは自分だけなのではと思い至ってしまってそれはつらい。このことにかんしてこれまでは悲観的になって(他者を見おろして)いたのだけど、それが逆転して自分が卑小な存在に思えたのはつらい(つらいけどパラダイムのシフト)。
口にしないと(書く、でもいいけど)、言葉を身体の外へ出さないと他者には伝わらない、という命題みたいなやつがあり、理路は承知しているつもりだけど承服しかねるところがあり、それは過去の経験からの反省によるものであり、いつからかわたしは言葉は人間を裏切るものだから、はっきりした言語化を鵜呑みにせず、裏を読んだり仕草や雰囲気や行動からの類推を主に判断の材料としていた。それはそれで精度も悪くなさそうとか自分で評価していたりもするのだけど、失礼ではあるよね、とか。言葉はその人を裏切るとしても、まずはその人が外側へ放ってきた言葉を受け取ろうとしてもいいのでは、などと思えた。
つたないながら言葉を重ねている人がいて、そのまどろっこさをうとましく思ったりもするけれど、いざ自分が口をひらけば上手に話せることはほとんどないし、外に出すために試行錯誤している瞬間を他人がどうこういえることはないと思う。思おうと思う。
そして帰ってきて一日。片づけをしながらだらだらと横になったり録画を観たり本を読んだり、自分のために一日をつかっている、まあ日常に戻ったわけだけど、すると現代人の生活のなんとシンプルなことよ! あの混沌は不便さをどうにか生き抜くためのものであった。コミュニケーションって本来的にまどろっこしいものであって、伝わったり伝わらなかったり正しくなく伝わったり、たぶんコスパでいえばよくないものであるのだけど、簡略化はおそらくできないししてはいけないものではないかと思った。簡略化できたらそれはロボットとのやりとりとか、感情のないものになっていって、けっきょくは誰ともしゃべらない無コミュニケーションをめざすんではないかな。現状コンピュータの方が人間(の無知)に合わせるようにつくられてきているようだし!
とかいうふうに思ったりするのだけど、もしかしたら世間様ではそんな前提ははなからなくて、そんなの当たり前でねーか!(方言)とか思われてるのかもしれない。人の心は知れない。くわばら。