紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


(かっこ)使い過ぎ問題

わたし、コミュ障、とか思ってたけど、ただの人見知りなのでは、と思ったりした。おんなじじゃないと思うなかれ、人見知りは慣れてしまえば普通にやっていけるのです!!!

 

オンラインで歌会、”うたかい”派と”かかい”派がいるとかいないとか、見せてもらって、ウオーと思ったりウワーと思ったりした。見学の人もなにか言っていいということだったけど、言いたいことがあるようなないような感じだった。そ、の、感じを、つかまえようとすることに精いっぱいで、他者に分けられる言葉、が、な、か、っ、た!

さんじゅういちもじ、をふわっと丸ごと受け入れるのはそんなに難しいことではないと思うのんけど、助詞のひとつ、単語のひとつを拾って浄って、レンズを狭くして、広くして、これは何だというのをせめてわかろうとして咀嚼するという作業(作業よりずっと甘美だけど)を飽きずやられているの、とても。とてもとても。

 

先日、ジョギング用の靴を買いに行って、適当に選ぶわけにもいかないので接客を受けたけど、ウッ、伝わってなくない? とか思ってしまって、それが本当に久しぶりの感覚だった。自分の考えていることを正確に伝える(伝えようとする)、相手の言葉を受け取り、わかりましたよ(本当は十全に理解なんてできないのに!!!)と合図する、いとなみ、コミュニケーション、ウッ、ウッ、ウッ!!!

コミュニケーションのこと、以前は何度も繰り返し書いてた気がするけど、最近はあんまり書いてなくて、それは自分が変わったのか、環境が変わったのか、両方か、みたいなことを思いつつ、馴れれば馴れるだけ、ひっかかっていくハードルも下がるみたいなことを感じた。知った人の中でいると、単語だけでなんでもわかられてしまう(またはわかったような気になってしまう)。

 

伝達の不確実性みたいなことを考えすぎてしまって、前段とかの(かっこ)のような注釈をつけすぎてしまう。いつもの(読んでくれているような)人たちにはそんなこと(言葉は十全でないこと・わたし(紙)が(かっこ)を使いすぎるということ)、わかりきっているだろう、と(信頼みたいな)思いがあるけど、それでも注釈をし続けてしまう、のが病理(とかいって病理とは思っていない)みたいなところがある。端的にいったら、不安感からそうしてしまうんだという気がする。自分も他者も信じてないなと思う。それは当たり前の態度という気もするし、不幸のはじまりだという気もする。

 

(またオチもない感じで終わる)

 

(歌会はおもしろかったので、またどうにかして参加したい)

 

(思考は進むのに文章にするとはじめの地点に戻ってしまうような気がする)

 

(詩はなげっぱなし(ではないのかもしれない))

 

(放言だけで生きていきたい(mm...))