紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


(1)

もやもやする、とかれは言った。でももやもやするのがわかってるもやもやと、予期せずもやもやするのとは違う気がする、とも。単純にこのことだけを考えると、もやもやにも差異はあるということか。もやもやというのは一般的には解決すべき問題であるとみなされるんだろう。逆説的にいえば、現時点での解決が難しいからもやもやする、のかも。

というようなことを考えながら、でもわたしけっこうスッキリしたぞ、と思いながら。もやもやはもやもやで持っていこうと思ったら、思えれば、気持ちはいくぶんか楽になる。あーでももしかしたらもやもやをもやもやのままで持っていくのが本質的、なのだろうか。なんてね。なーんてね!

書くつもりではなかったけど、ここまで書いたし今日書くかという気持ちになって、なんかでも文字にするのをはばかられる気にもなり、だれにも言わず大事にしまっておくというのも、もやもやを持っていくの一であるように思う。

劇中人物がいう、本音をひた隠すっていう(でもばれてる)他者への圧みたいな、圧ではなく言葉でしめせって感じ、あなたのその心の中にめばえたものを大事にしたいのに待っていたいのに言葉にして口から出たとたんに泡みたいに消えてしまう、それをそれでも待っている? 言葉を圧倒的に信頼し(しかし言葉の本質的にそれを信じることはできず)それでもなお渇望渇望渇望。あなたを待っているのか言葉を待っているのかわからなくなるでもその彼女の期待と絶望を何度も味わったことがある、そして味わい続けていくのだという諦念、でもそれを見せてくれたことは希望でもあった。困難な対立が何度も劇中でわたしの中で言葉の外で繰り返される繰り返される繰り返される。

もやもやの理由をさぐり、暗い足元(立っているところもわからないほどに暗い)を掻っ切ってみせることが重要とは思えないのだけど、でも言いたい。言葉がなんぼのもんじゃい、言いたいのだ。おそらく、すくなくともわたしにかんしては、異なるレヴェルのもやもやを生きとし生けるものが必ず持つだろうこんがらがった糸玉をすごい速さで大量に投げつけてくる、その遊びは舞台の上でのみ行われているのではなく、わたしにもわたし達にも投げつけられている。質というよりは量だ物量作戦だ。たぶん大体みんなこれでやられてしまう。

思うに、人々がぐねぐねと動きつづけていたのは、言葉の重要さ/非重要さとリンクしているのではないか。言葉など口から出たとたんに枯れてしまう花なのにそれでもあなたのその口から出てくる言葉を待ち続けている信じたがっている。あなたが言葉を口にする言葉を信じたがって、それは同時に自分を裏切っている。言葉なんてとるに足らないものだと知っていて、そのために身体はぐったりと目的はないような動きをしなければならない(意味のない動きを止めてはならない続けなければならない目前の人(の言葉)が自分を裏切ることを知っているそれを中和するために身体をつかう)。言葉の無意味さをわかっているからこそ身体で無意味を受け止め返す。関節のない死者のような動き。