紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


安全な泥棒

水滴がつと重なった部分を拡大するルーペみたいに文字はふくらんで見えやすくなる。でもどこか不自然にゆがんでいる。視界も思考もクリアになる日がたまにあって、そのときはすべてにピントが合ってはっきりとよく見える。観察者として満点を自身に与えたくなる。水滴がくぼみをつたっていくようにピントが合う部分は次々とうごく。わたしの眼。ひとつひとつを刻みたくって、見ているものを心の内でくりかえす。瞬時に文字を言葉を文章を与えていくわたしのフィルターをとおして全部が平面におとされていく。しかしそれは影を写しとっているだけだから、この世にはなんの影響も与えない。完璧な観察者は安全な泥棒みたいね。

秋の空は雲が表情豊かで、うまく説明はできないけれど、「あ、秋」と思ってしまう。空の高さを感じ、雲がいくつも貼り付けられている。今日のは畑の畝みたいにもりもりと並べられていた。強い風が吹いたあとで、空は平和そうだった。朝はうんと寒くて、あわてて簡易的な衣更え。ヒートテックのシャツを探し出してくる。ウールのスカートは盛大に皺がついていた。

いつも並んでいるパンケーキのお店は奇跡的に列がなく、先頭に立つ。柔らかそうなパンケーキ、普通のパンケーキ、堅そうなパンケーキにパスタもスープもサラダもある。久しぶりに会った彼女は十年くらい前に一緒に勉強をしていた人で、といっても十も二十も歳上なのだけど、わたしたちの興味は変わらず、むかしと同じような話をして、肯いたりしんみりしたりする。パンケーキ、一枚ずつ交換して食べ終える。

そういえば息子が。大学生になった友人の息子のバイト先が近くにあるから見にいっちゃおうよと誘われて、思えば十年前に漠然と紹介されたことがあり、しかしあの子がもう大学生なのえーそうなんですかーなんて言いつつ、頭ではわかってもいややっぱり頭がついていかない。計算上というのはわかるけどそんなはずはないと思ってしまう。この十年でわたしはほとんど変化がないものな。それで、こっそりのぞきに行ったかれは立派にお兄さんになっていて、小学生くらいの人に一生懸命接客をしていて胸うたれる。なんというか、おどろきであり感激であり胸がいっぱいなのだった。

「お兄さんでしたよ、お兄さん!」って入口で離れて見守っていた友人に伝える。友人も頭ではわかっているんだけどという風で、二十年も一緒にいたらそりゃあわからないのだけど、子どもだった人がおとなになる地点がどこかにあるのだろうと想像した。ゼロ歳から十歳になるのも成長だけど、子どもは子どもだし(反論ありそうな気もするけど)、十歳から二十歳になるのは子どもがおとなになる瞬間をふくんでいる。先ほどの小学生から見たらかれはりっぱなおとなであるし、友人もまだ実感がなさそうで、わたしは混乱していた。

この日はピントが合ってる日だったから、すべての情景をめっちゃおぼえている。ピントが合ってる日は自分のなかでいい日だから、そういう日が増えたら楽しいのになって思う。