紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


才能がない

才能がないのだからしょうがないとべこべこにへこんでみるがそんな卑下はポーズであるかもしれないね。仕事と自分をくらべたときに自分が大きければ勝ちだ。そんな仕事はちょろいちょろい。仕事の方が大きければわたしは食われてしまう。というようなことを考えたときに、理想は両者が釣り合っていることなのだろうと仮説する。なぜ仮説なのかといえば、それを研究する段ではないからであった。現段階の理想をいえば、五分の力つまり自分が勝っている状況で仕事をこなし余暇に専念したい。のであったが、どうもやはりある種の仕事は魔物のようで牙をむいてくるのであった。それに対してもう少し力をだすかといえばなかなか難しく、端的にいえば余力をあなたに割きたくはない、のであった。できるのだろうけれど、やりたくない、のである。実際力を出していないのだからこれは口だけの負け惜しみの可能性は残されている。

仕事(にかぎらずものごと)に対峙したときに、能力と適性と意欲というものがあって、能力は単純にあらゆるテストをやってみたときのそれぞれの点数みたいなもので、適性はその仕事をこなすにあたって前出のテストでどの分野で何点以上が向いていますみたいなものかと想像する。「能力」(を発揮する)には「活きる場所」が必要だという仮説。しかしそれを活かすのには意欲が必要なんじゃないかと考えてみる(「なにごとにもやる気を出す」というのも能力のひとつのような気もするけれど)。それらのアンマッチミスマッチが悲しい事態をうむのではないかなど汎用させてみたりする。

こんなこと書きながらめちゃめちゃ不遜だなと思いながら最近のわたしは自分の好きじゃないタイプの人間になりつつあることを自覚している。世の適当な人々のことわからないわと思っていたけれど、それはかれらの能力じゃなくって意欲の不足からくるものだったのかもしれないなと思う。真理に気づいたのかもしれないし自分を正当化しているだけなのかもしれないし。

「神なき時代」って少し前に書いたけど、父(神)なるものから解放されて人々は自由になるのだけれど、代わりに自分で自分を律しないといけないのであった。そのときに自身を父親的なものにするわけではないのかなれるわけがないのかでちょっと話が違うなと思うのであった。混沌からの調和、そしてまた混沌にかえっていく途中なの。はははん。