紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


仕事のきらいなきみが好き

少し前だけど、ヒナ氏の仕事の内容が変わって、職場に行く日が少しだけ多くなった。誘われたとはいえ、自分の意志で。あんなに仕事を嫌がってたのに! 今さら効果はないのだがあわててクレームを入れる。週に5日も働くなんて野蛮だよと自分のことは棚に上げて。ヒナ氏のことは仕事が嫌い仲間と思っていたけど、どうやら話はそんなに簡単ではなく、嫌いだけではない複合的な感情を持っていたのだなぁと思う。それはまあ自分もそうか。なのでそれ以後はとくに何も言わないことにした。面白い愚痴はきくことにしている。

どんな人とつきあうべきかと考えたときに、自分のことは自分でできる人、とか考える。身辺自立という意味もあるけど、自分が落ちているときに八つ当たりしないとか、人を巻き添えにしないということも含めて。要は自分の機嫌を自分でとれる人ということなのだった。というように考えていて、自身もそうありたいと思っている。いた。

それは他人に影響しない/されないということなのだけど、たとえばわたしが怒りの感情にいるときに面白いことを言われたりして、笑っちゃったりする(面白いのだもの)、のが悔しいと思ってしまって、怒っているときはそのままふれられずに怒っていたいと思ってしまう。自分の怒りをそのままなだらかに収めたいのだ。というのは気分転換が下手だし、せっかくの浮上チャンスを放り投げてしまう、結果、収束が遅くなるというのはよくないことなのじゃないだろうか。そういう時に影響してほしくないと考えるのはとてもケチなんじゃないかと最近思う。

悲しそうな人とか怒ってる人とかに適切な手を差し伸べることで、気分が払しょくされるのは悪いことではない(たまにはどん底まで落ち込んだりしないといけないけれど)、わたしは自分が影響されたくないと思っているのと同じように、他人に影響したくない(するべきでない)と考えていたのを、あらためて思考の俎上に上げてたりする最近。

しかし、ブランク。急に考え方を変えてみようといったって、「適切な手」というのが突然わかるわけではない。そういう事態にあたってどうすべきかというのは、今後、観察して試行錯誤してやっていくしかないのだろうな。

それで、わたしもヒナ氏も双方立派かはわからないけどまあまあ大人で仕事もしているし個別の人間だし、で、そんな相手にどう影響していくのか、みたいな。わたしはそもそもの発想が後方支援系なので、松岡修造みたいのはできない(たまにやってみても的外れすぎてがっくりしちゃうし)。そんで、相手を子どもあつかいするでなく鼓舞するでなく、パフォーマンスを上げるにはどうすべきかということを考えている。わたしがいた方がいいのか、いなくたって問題ないのか。いなくたって問題ないとはいえ、なにかいい応援があるんじゃないのか、とか。

そんなことを考えるタイミングだったのが、わたしがいなくても(多分)、それなりのパフォーマンスを発揮できたということで、安堵してまた安心して暮らすことができそうだった。もしかしたらわたしのかけたあのひとことがきいてるのかもしれないし。それは結局わからないけれど。詳細については機会があればまた書く。とんでもなく馬鹿馬鹿しい話なのだけど。とにかく、だれかに影響できるって少しずつ思っていこう。ということなのだった。