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紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


(2)

この舞台の感想をながめていると、「観て以降」という言い方が散見されて、つまりのひとつの歴史的事柄のようにあつかわれている。それはわたしも同じで、これを観たあとのわたしはそれ以前のわたしではない。それはどんなことでも当たり前のことなのだけど、それが特別になってしまうのだった。「以降」、わたしはほかのものごとの「以降」のことも考えるようになった。この「以降」を上手にあつかえなければ、わたしがわたしとして生きていることが無意味であるような、自分と世界と歴史に責任をもつ主体であれとためされるような。舞台は舞台上でおわらず、客席にひらき、劇場の外にひらき、明日にもあさってにも浸食していく。見事でおそろしく罪深いのだった。共犯者なんてかわいらしいものでなく、観た人を現実の舞台に引きずり出して当事者にしてしまうのだ。

メインとしてえがかれる女性は、いなくなってしまった恋人のことを考えている。忘れられない。別離なんてよくあることで、彼女だけが特別なわけではない。時間が忘れさせてくれる。未来へ進もう。それがかれのためでもある。そんな言葉が飛び交う中で、彼女が特別だったのは、忘れないでいる、を選んだ、選ぼうとしたことだった。

でもこれからがややこしいのは、「忘れないでいる」が正しい、と大声でいう舞台ではない。し、「忘れて前をむこう」が正しい、とも言われない。どうもどちらかが正しいなんていうナマナカなものではないのだが、両論には派閥があって、それぞれが相手を説得しようと叫ぶ(「忘れないでいる」派閥は叫んでるって感じではないのだけど、それもその流儀に則っている感じがしてよかった。とっても頑なだった)。というのがわたしの思うこの舞台のあらすじ。というか枠組み。それと前回書いたのだけど、「言葉を伝えたい/待っている、しかし言葉は十全ではない問題」が組み合わさっている、と思った。

前回(『メロメロたち』)、観たしよかったのに全部忘れるという悲しい事件があったため(記憶力がね……)、今回は筆記用具を持ち込み、気になる言葉を書き留めていった。し、『メロメロたち』の脚本も購入してリベンジってなったのだけど、それを読みながら、観ながら書き留める言葉は自分(鑑賞者)のエモに依拠するなぁと思った。だからやっぱり客観的ではないけれど、それで良いという気もする。し、脚本を読もうとも、舞台って毎回違うものだから「脚本」を絶対的テクストとしてあつかうのも正しくないように思うよ。

ということで、その時のメモを読み返しているのだけど、まあやっぱりよくわからなくなっている。がとにかくあとふたつほどは書きたいことがあるのであった。