紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


内面

今週から来週にかけてちょっと忙しく動いていて、遊びみたいなもんなので楽しいのだけど頭のうしろがぼんやりしびれてきていて(比喩です)つかれてる、と思う。このまま突っ切ると体調くずしたりするのよねとわかっているけど、ぎちぎちの予定はもうどうにもならない。一日だけほっとできる日があるからそこでうまく休みたい。その翌日の用意をせねばなんだけど。

つかれているとき、でも、夢のなかみたいで、ナチュラルにトリップしててお得だなぁと思うし、今やたいせつなことはそこにあるのかもとか思ったりする。ぼんやりしていることに苛立ちもあるけれど、その思考をどうにかあらわしたくなったりする。

①すきなパフォーマンスを観に行って、現実のはっとする瞬間を人が目を背けたいものを拡大レンズで戯画のように見せていて、わたしたちは笑っているけれど、とても偽悪的、いや偽善的?  なことをしてるのかもと思った。その人たちを見るといつも思うことだけど。われわれは共犯者だった。でもそれは趣味の悪いことかもしれないけど、現実に返ったらけっきょくみんな見ないふりしてるんだから、知らんぷりしてる方がよほど偽善的ではという気もした。われわれの趣味が悪いなんていわないでよ、みたいな感じだ。

②それと同時にすごーーーーく些細なことを、文章にしてしまったら数秒で読み終えられてしまうようなことを時間をかけてやったり、抑揚をつけてやってみたりするのはすごくて、これが芸じゃと思ったりする。いつも思ってる。最近しっかり文字を追えてないこともあるかもだけど、読書だけで満足してはいけないと思う。哲学書なんかは膝の上でいいのかもしれないけれど。いや、哲学の時間を立ち上がらせるというのもおもしろいのかも。

③死者に鞭打ってくれるなよとともだちが言った。

④若い人の衒いみたいのが鼻につくと思ってしまうことが増えた。もう少し歳をとればかわいいわねって思っちゃうのかも。それは感性の死だと現時点では思うので、そうなっちゃうのは怖い。なったらなったで受け入れるだろうから自分に対する甘さがすごい。

⑤好きなものがあれば大丈夫という価値観、めちゃめちゃ憧れるが本当に?  という気持ちになってしまうのも事実で盲信できるほどピュアじゃないのだった。たいていの人はそうで、現実現実とつぶやきながらやっているのかも。本当に中途半端だ。書くことだけがわたしを成り立たせているような気がする。ここまできてしまったら。空白もあるけれど、ここでは5年くらい書いている、ほかも合わせたらずっとずっとだ。ぜんぶ無くなってもそれだけは残っているのだ。それ以外のことを身につけたくも、一朝一夕というわけにはいかないというのが本当のところだろう。気持ちなんて一瞬で、それを持続させるのは思い込む力の強さとかで、それがなければ継続しかないのかもと思ったりする。真理かも。ここしばらく悩んで迷ってつらいけど、これがわたしのつらさなのかもと少し開き直ってきた。外から見たらつらそうにはみえない気がするな。飄々としているってよく言われる。

⑥ "内面" の話、する?

⑦たしかにずっと書いてはいるけれど、このブログはわたしにとってはほかとは違う感じがしている。書くことを手にしている気がするのはこれだけだ。年代的なものもあるだろうけれどこれは文学の問題という気がしている。島崎藤村が始祖だという日本文学にえがかれる "内面" はわたしの知ってるはじめから存在していて、意識されなかったんだなと思うところからはじめている。

⑧2018年だよ、今?

⑨赤子が言葉をおぼえるのはじめからなぞっているとしたらなんてまどろっこしく厄介か!

⑩傘を忘れたがなんとかなった。勝った!