読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


題材との距離/ソウル・キッチン

近ごろはなんだかあれなのだ。全然よろしくない。気がふさいでる。楽しいこともあるし、興味深い話、発見、考えが深まるなどあるのだが、それがなんだという感じだ。エントリもあまりうまくいかない。昨晩も書いていたのは気が乗らず下書きへ入れた。日記(紙)に書いてるのなら、なにを書いても表現が気に入らないことはないのだけど、人が読むところへ書くというのはそういうことかと感じ入る。

購読しているブログでは昔の日記をエントリしている人がいて、それはできごとと距離をおけておもしろい試みだと思う(その人がどういうつもりでやっているかはわからないけれど)。わたしも過去のことをそれと言わずに書くこともあり、そうするとわりと冷静に書けるし、落としどころが醸成されてなかなかいいと思う。気が楽だ。

しかし、この、今の気持ちを細かに記載したいと思ったら、それはやっぱり紙に書くのがいっとうなんだろうな。でもその一方で感情のなめらかでないとげとげして生っぽいものを(ウェブ上で)読みたい(し、書きたい)という気持ちもある。匿名でなく、書き手の連続性を保証したうえで、それが両立することはあるだろうか。自分をけずって傷つきながら書いている人が浮かぶ。かつお節か。自分味の出汁か。

(そしてここに書く時点で「実際にやってみるしかない」という結論に達するが、しかしそういう出口がひとつしかない問答はあまり好きではないので、この問いから逃げるか、天邪鬼な回答を出すために論理をこねくり回すか)

ところで、「紙の日記」という語はわたしがつかうと、ダブルミーニングになってしまう。

このブログでは遠い昔、同居人(現ヒナ氏)を「神様」と呼称していた。それは、かれがわたしにとって神様みたいな人(たちの内のひとり)だったからだ(宗教じゃないよ)。尊敬(とオモシロ)を込めてその愛称をつかっていたのが、さすがに痛いのと、キリスト教徒の人が読んでいらして申し訳ないなと思ったので、ヒナ氏とした。神の下野。ヒナ氏のヒナはヒナギクのヒナである。が、いまとなってはくまの絵であらわされ、くま氏でもいいのでないかと思っている。

だれにもきかれないのでここで自発的に申し上げるが、なぜくまなのかということについて。一年ほど前だがヒナ氏が急にクマについての書籍を読み漁るというできごとがあり、読み終わるたびにクマの豆知識を教えてくるのでその腹いせというか、「こやつはもう熊野郎」と決めつけて、ブログに描くときはくまの姿にすることにした。

f:id:letofo:20150302002216p:plain

(くま野郎誕生の瞬間である)

自分の名称を「紙」としたのも軽い気持ちからで、そのときは同居人が「神様」だったので、同じだと面白いとかそのくらいのノリで名乗った。もうひとつこじつけるならば、「無人島にひとつだけ持ってくとしたら?」というよくある問いに、「紙とペン」とこたえるからだ(「紙とペン」ってひとつじゃないよなといつも思うけど)。

アイコンが「A4」なのも適当で、気が向いたらB5になってるかもしれないし和紙になってるかもしれないし。髪とかね。あと、IDの「letofo」はなんて読むのか、自分でもわかっていない。「レトフォ」っておぼえているけど。ブログのタイトルの単語から最初の二文字ずつを持ってきているだけなのだ。

これまた誰にもきかれないけど、"learn to forget"はドアーズの曲からとっている。曲名はご丁寧にブログのアドレスにも入っている。疲れ切ったのんだくれがその晩最後に辿り着くのが、ソウル・キッチン。そこには肉感的でゆるんだ壮年のママがいて、のんだくれはぐずぐずにとかされて、ドラッグ的な世界でママの声が響く、忘れることを学びなさい……、というのがわたしのイメージ。

こんなことが持っているCDの歌詞カードに書いてあるのだけど、しかし、昔の洋楽の対訳歌詞はわりと適当で(大約というのがあっているくらいの)、だって今歌詞を確認したら、ママがいるとかどこにも書いてないからね。というわけで、この情景は、それこそ私のソウルのキッチンなのだった。

 ★

書くつもりのなかったことまで書いてしまったけど、いつか書くつもりのことでもあったから、問題はない。わたしの中で繰り返されていた文章がすらすらと出てくるのは、気持ちがいい(予定調和でないだろうかということも考えてしまうが)。でも、そうでないもの、うまれたての、手あかのついていない言葉、つまり即興性みたいなことについても考えたい。なにが(どちらが)正しいのか、正しいと考えていいのか、わたしはいつもわからなくなっている(時間をかけることが肝要だ)。

いまのわたしの無意識は自分以外の世界が広がっていることが気に入らないのだと思う。そして、こう書くことでまた傷ついてしまう気がしている。とはいえ、書くことで損なわれることは、わたしにとっては(今のところ)ないので、回復していくのだと信じていられるのが幸いだ。