紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


書かなくても生きていける

なんつって、ほんとうは書いている。あれだけ紙の日記よと言ってたのが、ブログを書いている間はとどこおっていた。ので今年は紙の日記を優先している。するとブログまでたどり着けない。単純に補完関係にあるかといえば両者は違うもので、ブログに書いていたときは(あれでも)他人に見せるつもりで書いてたんだなと思う(この文章ももちろん)。日記の方がわたしの"生活"に近しいから、日記を書いてからブログ、の順でありたい。それをすっ飛ばしてブログ、時間があったら日記、を書く数年があって、それはどうだったんだろう。婉曲的に書こうとする頭が発達しただけの気もする。そんな生活から日記第一への回帰をすると、日記なのにブログっぽい文章になっていることに気がつく。このまどろっこしい書き方を、成し遂げている、ペンを持ったこの手で!!

書く手段は文章(文体?)に影響を与える、しかしそれは固着のものではなく回帰性? 再現性? がある。手段によって身についた文章がほかの手段でもあらわれる。ウー不思議!

書くことが生きることだと感じるのはそういうのもたぶんあって、「書くこと」自体が生き物のように変わっていく。固体ではない。「書くこと」を「創作」に押しこめてしまうとそれは固く、「書く人」に隷属してしまうように思う。「創作」は目的語で、主語(書き手)の思うどおりにこね回されるのだ(でもこれはわたしの印象で、人によっては「創作」は(わたしの認識と同じような)生きものと考えている人もいるだろう。その言葉をとらえる感覚の違いなのだ)。(でも「『創作(文章)』に書かされている」っていうのもちょっと違う気もする)。あくまでも一対一の並列な関係のように思える。

それはそうと、この世の秘密がわかった気がして、ずっと言われているような、言われてきたようなことで、でもそれを実感するのに三十年必要だった。わたしは天邪鬼だから自分が得心できたものしか信じられないのだった。わたしは自由で、だからこそやりたいことをやらないといけない。上手くやろうね。