紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


ヘイヘイみんな元気かい

ブログの画面をひらく気になるまでにけっこう時間がたってしまった。いろいろ書くべきことがあるようなないような。

気持ちがめちゃめちゃになった1月の8日にアプリに感情とできごとの記録をとりはじめた。アンガーマネジメントのアプリらしいときいてはじめたけど、違うのかもしれない。感情を3つまで記録できる。紙の日記だブログだといってきたけれど、モバイルの利便性と誰に見せるつもりもなく固有名詞を書きなぐる気楽さ、仕事の休憩中とかにつけています。朝いちばんにもねむりに落ちる前にも。書きはじめて10日くらいで気持ちはおちついてきて(悲しみと怒りでした)、でもまだ続けています。でもやはり、本を読んだとか映画を観たとか詩だなとおもったときは、ブログを書いて読んでもらいたいなと思ったりしたのでした。

風が強いのが苦手になった気がすること、でもそもそも、風じたいがここ数年で強くなっていないかい、と思うのです。感覚の話でしかないのだけれど。風が強いと、わたしの身体の中まで骨と骨のすき間にまで押し入られる気がして痛いし怖い。ぐっと丸くなってこらえるようにねむる。野生動物みたいでほこらしい気もする。またなにか秘密をかくしているような感じもある。ライクア何らかの犯人。犯人であることはかくさない。

5月の頭に近くの山に登った。世情はあいかわらずだったけれど、もうなにがなんでもいいだろういってやれというきもち。2度登っていることは確実なルートではあったけれど、行く道はうろおぼえ、しかし斜面を登っている間にはっきりと、「あ、ここに来たことがある」と思ったのだった。道の記憶は山にもあるのだ。さすがにゴールデンウィークの好天日で、人はたくさんいたのだけれど、山ルール、わたしが勝手に感じたやつだけど、マスクしてなくてもとがめない感じがあった。マスクして登ったら危ない感じがあった。マスクはていねいにたたんでしまって、すれ違うときとかは首から下げたタオルで口をおおう。それでいい感じだった(たぶん)。

そんなことを考えていたら、知人の訃報があり、といってもお孫さんがいるくらいの年齢だし、心臓発作だったらしいよ、とか、ひとつの死についてさまざまな注釈をつけないと動けない感じになっている。だれになにを釈明しているんだろうか。死にふさわしい年齢があるわけではない。いろいろなきもちになって、思い出と後悔と信じられない気持ち、教科書みたいな渦がやってきて、でも普通に生きてしまっている。そのうちそれが日常になるんだろうな。自分もふくめて後悔を口にする人たちをみると、現在の自分が目前の人にどれだけ不誠実に(あとから不誠実だったと後悔するように)接しているんだろうか。または後悔なんてないわけがないと開き直って生きて、思い出の方にフォーカスするのが健康的なんだろうか。

2年に1度の住居の契約更新がやってきて、出ました「つづきがら」問題。世帯主はヒナ氏なんですが(元気です!)、ほかの入居者の氏名と勤務先とかを書くコーナーがあり、そこにあらわれる「続柄」。入居のときは不動産屋の勧めもありふるえる手で「婚約者」と記入。それを踏襲すればいいのであるけれど、結婚ぜんぜん興味ないなと最近確信しまして、書きたくないなぁとうろうろして迫る提出期限日。恋人まではぎり書けるけど婚約者はなんか嘘な気がする。一番しっくりくるのは同居人。同じ居の人。間違いない! わたしとヒナ氏の間に続いているものなんて何もないんだと再確認し、すこしショックを受けたりもする(まあ、婚約者と書いたところでなにも続くわけではないからね、欺瞞だからね)。そもそも続柄も勤務先も書く義理はないのではという気もしつつ、そこまで反抗する勇気もないちっぽけなわたしなんだったよ。

けっきょくは「続柄 同居人」とググることにより、「同居人って書いてもいい!」と鵜呑みにした結果、そうしてみました。親切なググり先によると、事実婚の場合「未届けの妻(夫)」も書けるみたいです。ほんとかなぁ~?(疑ってかかる) とはいえ、婚姻関係ってめっちゃ重くあつかわれるんだなぁと思いました(未届けだとしても夫妻は強い)。そういうところもちょっとずつ変わっていくんだろうかと見届け人になる決意をする次第。まあでも急に気が変わって籍を入れたりする可能性はゼロとはいわないので、わたしは未来の自分に寛容である。なんにせよあそびが必要だ。