紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


少しだけ

ここしばらく、しにそう、と思いながら生きている。死、でもまだそれは観念でもてあそべるレヴェルだから、という言い訳を付しながら。こんな気持ちで職場にいることがおかしく、ふと、ふと、生より死の方が近くなってしまった人(たち)のことを思ったりもする。生とともにあることにうたがいのない頃があり、それがどんどん(だんだん?)剥がれていく時期があり、どちらも等価値になってしまったら、そちら側の方が楽なのではと思ったら、そうなってしまうこと、あるような気がする。わかったようなことを、と思われたら本当にそうなんだけど。瞬間瞬間を生きていて、それを均して生なんだったら、瞬間の振れ幅で、間違いみたいな一瞬で、いなくなってしまうこと、あるような。ブログだって、振れ幅の極地みたいなものがやんやされるような気もするし。巨視的な人生と微視的な人生を両方持つこと、むずかしい。え、みんな、どうやって生きてんの? って少し思ったりもする。ずっと頭がぼんやりしている。たぶん、仕事から離れれば治るんだけど。しかしやめたあとの不安もすごい。社会を内面化しすぎている。楽しいことでうめたい。ブログも億劫なんだけど、書いていたいという気持ちもある。綺麗ごとばかりに寄ってっちゃうのは恥ずかしと思うんだけど、あの終わりの良さ、なんなんでしょう。教育の弊害だ。微分積分の意味(数学的な手法はまた別として)理解してなくて、微分するような文章、ってわたしが感じている状態は"微分"ではないらしいのだけど、錯誤をそのままにして文章を続けてみると、微分はいくらでもできるけどキリがないから、レトリックが必要だ、って思うので、積分はレトリック、ってことにわたしの中でなっていますが、いいですか?

 

はじめから最後みたいなドラマをみたよ パトカーランプのぼんぼりぼんぼり