紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


詩みたいなもん

に囲まれていた。それは「小さい頃は神様がいて毎日愛を届けてくれた」とか子どもにしか見えないピーターパンみたいなファンタジーみたいなものだったのかもしれないけれど、いろんなものの裏に超自然的な意味があると思って生きるのは楽しかったし、大人びたふりをしてそういうものの存在を誰よりも長く信じていた気がする。信じていたと書いたけど、いまだにうたがいきれてはいなくて、信じていたいのだった。

しかし歳をとるとそれはどうも難しいらしくとか現実を見なよとかが周囲に満ちるようになるとそれらは勢いを失くし、しぼんで、糸の切れた凧のようにぼとぼとと落ちてくるのであった。すると現実のなんと薄っぺらいことか! その厚みをみて嘆息する。わたしのみていた世界はふくらんで多義性に満ちていたのに。現実が想像よりも強度を持たないことを悲しく思う。小鳥の声はほかの鳥との会話であり、空の色の移り変わりは遠い友人の境遇を暗示し、TVショーは内容とは裏腹に哲学を囁き続けている、ような、人の、ものの、なにかの裏をよむような、なにもかもイデアについて語っているような美しい物語の予感をあふれさせていたのが、急に失速してしまい、わたしもようやく現実的な人間としてfitされていくのだった。現実は現実ですばらしい面もあると思うのだけど、わかっているつもりなのだけど、その等身大の感じに慣れてしまうのが少しこわい。自分は自分でしかないということに慣れていないのかもしれない。三十年以上この自分をやってきているのにね。書き続けていると自分を責める感じになっちゃいそうなので方向転換をしたいのだけど両者の折りあう点を見つけたいのだけど折りあう点があるのではというファンタジーに浸ってしまいそうだ。両者の折りあう現実的な点を見つけるようにしないといけない。しないといけないなんて書くとファンタジーの側を否定してるみたいになって悲しいのだけど、個体としてのわたしが、わたしの自然(じねん)がファンタジーにばかり寄れないのだからシフト変更していかないといけないのかなと思っている感じているという感じ。年齢。すべて年齢。

とか言いながら、詩みたいなもんが強く感じられるときがあって、そういうときはいいぞいいぞって思ってる。それは外側から来るときもあるし、内側から来るときもある。現実でない言葉をきいて、現実でない言葉を書ける気がする。次元が変わってしまう。ナチュラルにハイになれる才能かもしれない。最近、飲酒をしないでも酔った感じになれることがわかってきて、ますます飲酒の必要がなくなってきた。のどごしばかり求めるようになっている。少し疲れ気味で坂本慎太郎聴いてたらおかしくなりそうだった。楽しくおかしくなれそうだった。思い出したら瞑想(なんちゃって瞑想だけど)してるのも関係あるかもしれない。いろんな幻が目蓋の裏にやってくる。アニメというかイラスト調の幻が多いんだけど、これってみんなそうなのかな?