紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


ドルフィンソング

なにもかもが抽象に近づいていって戻ってこない。そういう時期もある、とわかっている。わかってしまったけれど、そのたびに(また戻れるのか)不安になるし、それはそれで一回性のとうといものだとか考えたくなる

 

そもそもこの日記の抽象度、高めなんですが

 

具体的なことを書いているとむず痒くなる癖があり、固有名詞や実際の感情の流れなどはぶいてしまう。ひとつ次元を上げると書きやすい。もしかしたらその方が共感されやすかったりしませんか。いやいや具体的なことの方が共感されやすい説もありますね?

 

 

こういう気持ちのときは日記なんて書けないから作り話とかうそごとを書いた方がよいとなんだかわかっているのだけど、それは文章なのか、詩なのか、文字にした途端にそれはうそになってしまうし(だれにも悪気はないのにね)、具体性を取り去って抽象的にするとかうその具体をあたえるとか、それで"おはなし"の強度が高まるんだろうなと思う

 

こんな感じでおのれの抽象的文章を正当化します

 

こういうことを言ってると「お得意の詭弁だね?」と言われます

 

まじめなつもりなのだけど、理路は整然としていると思うのだけど

 

たまに目前の人を煙に巻いてやろうと思って積極的詭弁を用いることもありますが、意図していないときに、いうならば消極的詭弁が飛び出すこともあるので、わたしの思考は詭弁寄りなのだと考えている

 

または同居人が詭弁に過剰反応をしているか

 

……そういえば「文章の書き方」みたいなのを読んでいると上記のような箇条書きから序論本論結論のある「立派な文章」ができますみたいなのありますね

 

してみると、これはなにかの草稿なのかもしれないけれど、文章研鑽においてどこをゴールにするか、そういう論とわたしの感じ方、または日記とは異なるんでしょうね

 

めちゃくちゃ改行してるから今日のこれは詩です

 

 

「あまり知りたくないのだけど」と前置きしたうえでアブラムシのこと、しらべてもらった今朝(虫ってめちゃめちゃなのいるよね、とあらためて思った)

 

 

おやすみなさい