エモ
あなたの日記を読むべきはワタシでしょっていう気分になることがあって、その不遜さも悪くないんだけど、やっぱちょっといかんよねって思って言わないのだけど。たまに、というかしばしば、みんなもっと詩人になってくれって思うことがあり、それは結局、叩きつけるような日記を、偏見と感情をがっつり見せてくれってことなのかも、って思った。わたしもそういうのを書いたりするけど、けっきょく下書きに入れっぱなしだったりする。みんなもそうなのかもしれない。
承前の文で「エモい」を使いかけてやめた。エモいをひらいた結果が「偏見と感情をがっつり見せてくれ」であった。このふわっとした言葉は便利だけれど、わたしが文章を書く上では使わない方がいいな。しかしエモさ。エモさにはどうしようもなく惹かれることがある。
書きはじめはエモに突き動かされることが多いのが、書いているうちに収束してきたり冷静に分析してみたりお得意の話がそれることも多くて多くて、それはそれで結構なんだけど、やっぱエモさというものは大事にしていきたい。しかしこう書くと軽さが目立つ。
詩人なんて、ちょっとおかしくないとやってられないと思った。
おかしくなってしまうくらいにショックを受けたのは先週末の職場での一斉の研修会でもうなんていうか、最低であった。最低であった。最低であった。わたしは途中で退室するくらいに最低であったのが(退室させてくれる職場であったのが救いだったね)、ほかの人にきいたら、納得しないまでも夕方まで受講したのちに「なんだったんだろうね」って首をひねって教えてきたので、そっちの方がよほど失礼なんじゃないかと思った次第。センシティブすぎるのだったわたし。みたいな。どうでもよくやり過ごすのが能力とも思ったし、気分の悪くなるようなところには近づかないとも思ったし、世にはいくつもの正しさがあって、自分だけが正しいというつもりもないが、自分が間違っているとも言わないぞ、みたいな。頑固である頑固である頑固である。一方で弱気なので、そう言い聞かせないと負けてしまうのだった。
歩いていると野菜の無人販売があって、小さなゆずが10個弱100円で売ってたのでヒャッホウと思って買ったのでとてもハッピーである。といっても前回のゆず味噌も残っているが、ゆずで肉を焼き、大根の甘酢漬けをし、鍋にも入れられるし、ドレッシングにもなるし、ゆずゼリーをやろうと思っている。最後には一緒にお風呂に入ろうと思う。ゆず風呂とのニュアンスの差よ! ゆずってエモいよね。ゆずによって自分がエモくなるし、ゆず自体もエモい。
エモいって何? fragileってこと? vulnerableってこと?
エモを冷静とか常識とかで包んで社会生活を送っているんだなぁと思って、人間って不思議だなぁ。はるかな気持ち。ロボットになりたい気持ちと、他人をロボットと思いたい気持ちがあって、でも、エモがなかったら生きてる意味ないんじゃないかな。とか。やだな。詩人とロボットは相容れないかな。