未来がないから今この時を愛せ
土着の祭に行った。昨年も行ったし、ブログに書いたと思った。「土着の祭」で検索したらそのものが出たし、まあ本当に昨年と同じ気持ちにしかならなかった。おそろしいことである。
折よく好天、草原に敷物をしいて寝そべって目をとじて日光を享受する。あたたかさ。みんなみんなが楽しそうにしていて、犬もいたし、子どもたちが駆け回る。暢気な音楽がかかっており、気軽にアルコールも飲める楽しいおまつり。しかしやはり圧倒的にわたしは他人でしかなく、今年は会えた知人には「人に酔った」といって辞去した。
素晴らしい集団、コミュニティ、のようなもの、もしかしたら見せかけだけかもしれない(がそれを知ることはできない)、は関係ない人を排除する、というか。こばまれたわけではない、しかしおいでとも言われない、不思議だ。あんなにアットホームな空気をかもし出しているのに。だからこそ、冷たくされた、というような気持ちになってしまうのかな。コミュニティとは何かを差し出して所属するものなのかもしれないし、そしたらまあしょうがないよね。って。
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ふるい立つような気持ちが、まあ今のところはあって、その言葉やら社会制度でもって、個人から生活をうばいとるということはゆるせなく、たたかっていくんだというようなことをぼんやりと考えた。もちろんそれはわたしも同様であって、わたしのためにその人から楽しい生活が失われるというようなことはあってはならない。のだった。それが答えなのだった。
村上春樹の「雪かき」について、いつかは書かなくてはならない。
たたかう、抗していく、動的状態をおそれない、というようなことを考える。がしかし、日々にまぎれて忘れてしまうことしばしば。ヘルツのような行きつ戻りつを生きている。時間は着実に進んでいるのだけど。
「意味」の支配しない世界を理想としたとして、じっさいに意味がうしなわれてしまった世界で強くやっていける人は多くはない。というようなことを考えた。コミュニティのサイズも肝要だろう。
久しぶりに読んでる堅めの小説は意味意味意味ばかりで、わたしが勝手につくりだしているだけともいえる意味の世界に、しかしただよいながらの読書。