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紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


物語フェティッシュ

前エントリ(小説と物語のちがい)について引き続き考えている。

わたしは自分が書くものを「小説」とよぶのは恥ずかしくって、代わりに「物語」と使いがちで(読んだ人は「いやでもこれ『小説』じゃん」と思うかもしれないけど)、まあでもそれはほぼイコールで使っているわけだけど、厳密に定義しはじめると「小説」と「物語」は違うよねという話(あと、本ブログはとりあえず日記ですとかいって、「日記」も定義しないといけないのかしら)。

たとえばアニメとか漫画、詩も演劇も歌ももしかしたら絵画も「物語」であり得る。それぞれは表現手法であって、小説もそのひとつだ。「物語」を長い文章で表現したものが「小説」である。(とはいえ、その中では「小説」が一番「物語」に近接しているように思える。)(ここまで考えて、あ、これややこしいやつだなってわかりましたね。)

しかしこういうのすっ飛ばして、「インターネットは物語」っていうのも、しっくりきてしまう。でも、「インターネット」は表現手段ではない。し、インターネットイコール物語というのは片手落ちすぎる気がする。

「物語」はめちゃくちゃ大きな流れで(じゃあ、ガンジス川を思い浮かべますね)、そこには何もかもが浮かんでいる。流れている。なにがかっていうと、それは「人生」かなぁ、一番大きいのはそれかなあ、いや大きすぎるなぁ。どちらかというとガンジス川イコール人生で、そこには喜びとか悲しみとかの感情、事件、(人間の)成長、エトセトラエトセトラが浮かんでて。その川の中に手をつっこんでじゃぶじゃぶ取り出す。続けてつかみ出す。それらを並べたものが「小説」になるのだと思った。

しかしこのガンジス川はすべての人のガンジス川ではなくて、わたしまたはあなた、それぞれ個別の川なんですね。「物語」は個人のもので(場合によっては「2015年の人々の物語」とか「アフリカのある部族の物語」とか複数の人が共有する川(「物語」)もあるんだけど、これは「集合的無意識」みたいな感じで(アレ、わたし、ユング派? ってなった))、そうすると「小説」も自然と個人のものになるんじゃないかなと思った。

なんでそんなことを思うかというと、昔に文学の先生が「誰でも必ずひとつは小説を書ける」と言ったのをおぼえていて、それは人は全員個別の歴史があり、物語を持つという意味で(「自伝」と言ったらわかりやすいのかもしれない)、わたしはそこから、①誰でも小説が書けるのだなと勇気づけられ、②つまり複数書ける者は作家なのだなと合点し、③とはいえそのひとつすら書かない(書けない)人も多いのだナァと今となって気づく、という風に十年ちかくもこの飴を味わっているのであった。

今回の話はいろんなレベルが混ざり合っている感じがする。「物語」をなにか適切な語に置き換えられると話がわかりやすくなるのだけど。とりあえず今の時点でわたしが考えていることをできるだけ整理したらこんな風なのだった。

そもそもわたしは大きく考える癖があって、大は小を兼ねるって思ってるのかもしれないのと、世の中は大きな規則がしばっていて、全部最後には割り切れるようになっているのでないかという子どもっぽい考え方が強いのだ。実は。辻褄あわせを喜んでしている。なんでもあとから思いついて伏線にしてしまう後出しの人生だ。

そういえば、ゼミの発表とかパワーポイントとかなんでもその裏にストーリー(つまりは「物語」)を読みたくて、それを仕込んだりしていたのだった。それは今も変わってなくてチラシとか作ってても考えている。むしろみんな、なんでストーリーがなくて生きていけるんだと思っている。たぶんそういうひとつのフェティッシュみたいなものなのだ。

というわけで、今日は今日とてフェティッシュに気がついたということで、終わりにする。続きはまた今度。