紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


親孝行

家族といっても、友人みたいな家族といっても、友人ではないのだというのが結論のようなものだった。たぶん、わたしは甘えられていたのだ。あなたが傷ついたといったとき、わたしも傷ついていた。あなたは自分がケアされるべき、と言いたかったんだろうか。そんなことはないでしょう、聡明なあなたなのだから、と心の奥でわたしは思ったのかもしれない。わたしはあなたをケアしようとは思わずに、自分をたいせつに、いつもどおりの自分でいようとした。傲慢だったかもと今は思うけど。親しい人にはケア的に接しようとしないのは悪い点かもしれないし、美点とよべるのかもしれない。まあでも連絡遅くなっちゃったよね。そんな、自分が関与してると考えることこそ思い上がりで、ただただ自分の生活が忙しいだけなのかもしれない。わたしとあなたは独立した人間だから。自分が影響してると考えるわたしの方こそ支配的で甘えているのかもしれない。

父親から荷物が届いたのだけど、宛名の字が震えているように見えて、急に心配になる。酒か? 最近はあまり飲んでいないはず(医者に怒られたから)、でも素面でこの字の方が心配、荷物の緩衝材で字が書きづらかったんだろうかと思って、似たようなペンを持ってきて隣に同じように書いてみる。そういう時に確実に老いを感じていて、親の場合はグッと死がちらつく。もうそんな年齢なのだ。わたしがおぼえているあの晴れた日に4人ならんで駅まで歩いたみたいな若々しさは失われて、自分も持っているのかかなり怪しいものになってしまった。所詮年に数度しか会わぬわたしだし、彼らは彼らなりに楽しく暮らしているんだろう。距離と無知がわたしを感傷的にさせる。

そういうとき親といつまでも暮らしている人々のことを考える。親離れ(子離れ)とか嫁姑の問題とかもあるけれど、独立して住むことだけが正解ではなく(わたしの考えでは近くにいても独立した個人としてやっていくことは可能だ)、同居することで問題を引き受ける覚悟とか責任みたいな、心理的な何かがあるような気がした。もはや悟りみたいな話かも。人が家族を持って、あるいは持たないにしても生まれた家庭があり(ないかもしれないが……)、子どもを持って、あるいは持たないで、生きるということの意味みたいなもののことを考える。が、まとまらないのでこのへんでおしまいにする。