紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


なはんて

平等はあるけど、でもそれってみんなおんなじ、ということではないよなとなんだか思った。はじめは「平等はない」って書こうと思ったんだけどやめた。平等はある。ってかあってほしい。理想の話だ。現実に平等は実現されていないかもしれないけれど、あるべき姿としてある。また、平等が実現したとして、個別の差異を「平等ではない」と怒るのは違うことだと思った。それぞれのやり方がある。それを確認しておかないと、本当に平等になったときに齟齬が起きそうだ。本当の本当は個体差しかないような気もするけど、そう言ってしまうと不平等がつくりだされてしまうかもしれない。平等や不平等は構造の話なんじゃないかな。

というのが、福祉系の本を読んでて思ったのと、男女差みたいな話がネットで炎上しがちなこととクロスして浮かんできた。被害者ぶるなという気もするが(そういう言い方は加害者ではないのか)、そもそも全員なにかから疎外される(可能性のある)存在なんだとしたら、全員が団結して構造と戦ってないとおかしい気がするし、現状これでいいという人もいてもいいかもしれないけれど、その人はそのことだけしか確かなことはいえないのではないか。

 

先日あった人が「ぼくはちょっと考え方がコミュニストっぽいんですよ」と言ってたのをたまに思い出す。

 

酔うと陽気になると同時に話していることの抽象度が増すらしい(人を数字に例えたりする)。あと、いつもなら語尾をにごすところを断定の口調で言ってしまう。ぼんやりと覚えている。そういう自分が好きになれないから飲酒は慎むべきだ。また玄関で寝ていたら今度は動画を撮ると言われたので、もう絶対に廊下では寝ないと強く思う。

 

思考はマクロとミクロを行ったり来たりするが、わたしにはこの身体しかない。みんなそうだけど。

 

お正月にやってたドラマを少し見たら、こちら側(弱いが正直で正しいもの)とあちら側(権力側であり卑怯なこともする)の対立なんて話は手垢がついてつきまくって手垢 of 手垢じゃんと思った。主人公たちが正しくて潔白ででも上手くいかないのは悪いやつがいるせいってなんか江戸時代の物語みたいだよって思ったけど江戸時代の方が業にまみれてとんでもないところまで転がっていくんだから江戸時代に失礼だった。ひとりで勝手に思ってひとりで勝手に自分を叱ってたんだけど。むしろこうした単純化された話は近代とか現代のものなのかも。なんて。なはんて。