紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


youは何しに?

しまった。なんでこんなところにいるんだろう。駐輪場になんとか自転車を停めてから急にわからなくなる。そこまでは自動操縦のように手順にしたがっていただけなのだ。

買うものがあったのだけど、なんだっけ? あれもこれも買うつもりだったけどまだ在庫はあったし、、でようやく思い出したのがボトルガムで、え、わたし、つかれてるのにガム買うためだけにここまで来たの? げんなりする。

近ごろ、というかたぶんずっと、ものを食べるとかお金をつかう、くらいでしか自分が生きられていないような気がしていて、そうすると過食とか爆買いとかとにかく出かけるが+で、それ以外ののんびり活動が-になってしまって、家で一日のんびりしたはずが心がやすまらないみたいな感じになっている。何かがおかしい。食べるとか身につけるとかモノが増えるのは確かにプラス(増加)であるが、のんびり活動がマイナスではないでしょう(なにも減っていないので)、せめてゼロでしょう! みたいな反論は本質ではない気がする。心の充足だからプラスなのだよとかいい出すのもしゃらくさい。なんだかモノやカネに追われている。

ひょっと駅ビルにでも寄ろうものなら物々のキラキラが人々のガヤガヤが身体中に突き刺さる。そこにあるものと自分の持ってるものの区別がつかなくなる。これが行き過ぎると万引きとかしちゃうのかとか思いながら(たぶん違う)、正確にはそれを持ってる自分(未来)と持っていない自分(現在)にやられてしまうんじゃないだろうか。これぞ先のプラスの論理。このキラキラたちはカネと交換することによってわたしのキラキラになることは可能だけど、持った時点でそんなにキラキラじゃなくなって、部屋の隅に死蔵される。お金はないけどなくはなく、それと交換することは可能だなと思いながら、そしたらなんで買わない(買う)のかの差がわたしにはわからないのだ。わからないから買ってしまえ! という気持ちになるが、いやいやお金は大事だよ、と引き戻される。どれも緊急で必要なものではないのだ。こういったことはしばらく繁華街に行くのをさぼっていると起こる。

そのタガがゆるむ、というか外れる場所がいくつかあって、わたしの場合は本屋と布屋なのだけど、理屈は同じなんだけど、前述のキラキラがそこまでキラキラして見えなくて、まだ自分にひっつきやすい気がして、あれもこれもカゴに入れたくなってしまう。そういえばネットの買い物もあまりしなくなった(あれも「カート」ってカゴよね)。

のだけど、今日は本命の一冊だけを買うことに成功した。家で積読されてる紙と文字たちが呪っているようだったので。でも買わなかったら買わなかったで後悔があるので(でもちょっとしたら忘れてしまう)、しばらくは未練が残る。本好きにとって「図書館でよかろう」って思うのは負けな気がしてしまうのだ。でもやっぱこれ以上は持てないし、しばらくは「図書館でよかろう」ってつぶやくんと思う。たくさんのものを持ちながら忘れながら。