ロボットと人間
ロボはすごいぞ。最近のはとくになんだってやる。危険なところで働いたり介護もするし、将棋もさす。自動車の自動運転もロボの仕業だし、映画の脚本や小説だって書いてしまう。そんなふうに単純な仕事や人間の代替行為だけにとどまらず、なにかをうみ出したり、判断やら決定やらもまかせてくださいというわけで、未来の人間ってば、ロボたちの所業を消費していくだけのパーフェクトコンシューマーになれるんじゃないだろうか。スゲー未来。未来スゲー。人間はそんな風になるために何千年も歴史を紡いできたんだろうか。
というのはさておいて、ロボの書いた脚本、小説、棋譜などなどにわたしは感動できるんだろうかという疑問がある。べつに感動でなくてもいいのだけど、感服したりときに憤ったり、顔のないものの創作物に対して今までどおりの態度でいられるか。テクスト論の観点からいけば、イエスである。テクストはテクストでしかないから。といちおう述べておくけれど。作品って発する人の身体性によって内容が担保されるように思う。どんなに正しい美辞麗句でも人工知能が語るだけでは、あーハイハイとなってしまう気がする。いうだけならだれでもできるから。
と、わたしの考えを申し上げたりしたのだけど、ピクサーとか脚本をチームでやってるよねといわれて、人間たちの間でももうすでに作品から身体性を排除そして売れ線を確保ということが行なわれていたのであった。それがうけて興行収入もスゲーのだから、個人の時代は終わったのかもしれない。なんかでもだからやっぱピクサーあんまり好きになれないのかもとか思ったりもして、たぶん身体性を排除した作品は経済的にはキくのかなとかそんなことを考えてしまった。非合理なのが人間だからとかそんな。