紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


いつか夏に手を振って

五十年前の夏は暑くて、嫌んなるくらい暑くて、熱された空気が道路から景色をゆがんでたちのぼらせる中を少女だった母が歩いていき、駅の向こうの繁華街をぬけてなにもない公園の脇をとおって、今はない焼却場の隣のプールはにぎわっていたろうか。彼女がどうはしゃいだかは想像もつかないわたしはわたしの夏にプールで遊んだ姿は思い出せる。小学生のわたし達にはプールのある場所も50mプールの深さも広さも途方もなくて、やたらに冷たい水、底の色は深く、知らない人の背中はただ遠く、休憩時間に水分が蒸発したあとはじりじりと肌が焦げていく、石の隙間からのぞく雑草とアリが行き来するその長い時間、それだけの夏を彼女も生きたのか。帰ってくるうちに髪もすっかり乾いてやっぱり暑くなってしまう。その髪は長かったか短かったか。そんなこともわたしはわからない。延々と歩いている小さな人のことを考えたそれだけで。

一番古い友人というのは、小学校のときからのつきあいで、仲良くなったのは三年生のときだけど、わたしと彼女の歴史は小学校入学のときからかぞえられる。と、約四半世紀あり、今では年に数度会うだけではあるが、今さら同じ話題があるわけではないが、だからこそ代わりのない人である。その彼女に子どもがうまれたのを見にいき、生後ひと月もたたない男児をかわいが(るもなにもかれはくるまれて眠っているだけだったが)ってやっぱりそれははるかな気持ち。小学生だったわたし(達)に「二十年後、彼女の子どもを抱いてますよ」って伝えたいし、この小さな人には「六年も経てば、二十年以上も縁の続く人に会えますよ」って教えたい。すこし感傷的にすぎるとも思うけれど、ああこれがはるかな気持ち。