紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


そのような、ダイブ

わたしにはなんにもないが、文章だけは書いている、という気が強くしている。最近。日記だけど。学生時代が終わってから出合った人には、どんな風に思われているんだろうと考えてみたりする。バイトもサークルも成績も専攻も生活態度なんかを見てとれず、そのままのその人から、学生時代の思い出話をきいたりとか、もしかしたら履歴書をこっそり見て、みたいな判断しかできない。どんなレポートを書くのか、どんな論理をつかうのか、そういう点を積極的に話していく(本当は自身の口から言うよりは、行動から見てとった方がいい気がする)ことでもなければ、わからない。わたしなんぞはそういう話もしないので、すべてが闇、ミステリーに包まれている。ふっふっふ。

というようなことを考え、自分の持つ自分像と(たとえば職場の)他者からのわたし像って、現在、自分史上最大の乖離を持っているのではないか。いやまだ職場なんかはいい方で(仕事ぶりを見てはもらえるから)、学校も関係ないその他の集まりでのわたし、も相当なんではないか。ミステリー(このミステリーっていうのは、昔の漫画でそういうこと言うキャラクターがいたなーなんて思い出したのでした)。

その人の背景を知らず(対峙していれば性別年齢とかはわかるけど)、会話とか態度によって、目前の人はどういう人かを判断しなければいけないのってけっこうハード。自分が何を出すか、相手が何を読むか。ゲームみたいで別にどう思われてもいいやと思ってもいるのだけど、最近「考えの遅い可哀想な人」とか思われてるっぽいなーと感じることもあり、いやそれも被害妄想かもなんだけど、そういう態度を相手から感じるのはつらい。あとたぶんわたしめちゃくちゃ過剰なんで。繊細なんで。花瓶なんで。花瓶?

かといって、こうしてブログで読んでる人もいて(ありがたいこと)、その人たちにはどう伝わっているのかというようなことも考えて、年齢も性別も容姿もわからないインターネットの他者、文章を通じて内面だけは知っている(風)、というのも実際どれだけ知れているのかな。とか。

でちょっと話を戻すけど、「考えの遅い可哀想な人」と思われているんじゃないか、みたいなときあるけど、それって結局、わたしの中にそのように他者をみる枠組みがあるからで、わたしが目前の人に「考えの遅い可哀想な人」と思って接することが多いみたいな話で(いちおう、これは一例ですけど)。自分の中の枠組みをつかって、他者から見た自分を想像しているんで、わーつかれるー、つかれうるーってなって。目の前の人を貶める感じで判断するのは双方よくないからちょっとやめたいとか思った。最近。

携帯電話の機種変更に行った時も思った。量販店のお姉さんのことは、先日書いたけど。けっきょくキャリアのショップで若いお兄さんに接客してもらって機種変更はできて、その人はどんな人なのか、仕事のできる人なのか、人をなめてかかるタイプなのか、わからない。まあでもとりあえずまあまあ面白かったからよしとして話は続く。合格点を出す。でもけっきょくどんな人なのか、いまは愛想がいいけど、バックヤードでは客をこき下ろしてるのかもしれない(そこまで考え始めたら病気っぽい)、でもとにかく目前の客対応しているこの人、接客業としてのこの人を信じて話を進めよう、と思ってまあどうにかなって。自分の審美眼が正しいかはわからないのだけど、とにかく目前の契約関係は済んだ。あーそうか、目の前の人を尊重しようみたいな話かこれは。目前の人がどんな人か勿論それはわからない。とりあえず信じてみるとこからはじめるしかない、みたいな。なんだかそのような、ダイブ。