紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


新鮮な水の匂い

ああ月曜日。また今週もこの日が来てしまう。薄曇りのひどく寒い日だ。寒さが服の隙間から皮膚をかき分け忍び入るのを狙っている。つかまったら骨から冷やされそうだった。じわじわと芯から凍っていくような。そうならないように真剣に身体を動かした。

朝にいつもより早く出たため、職場に行く前に図書館に寄れた。図書館はまだ閉まっていてそんな時間に開館を待つのははじめてだった。わたし以外にも何人かいて、凍えながら時間をつぶしていた。駐輪場の端には灰皿があり、喫煙スペースになっていた。わたしはそんな場所があるのにはじめて気がついた。子どももたくさん来るだろうし、なにかと不似合な感じがしたのだが、近くの柱には来週の幾日かをもって喫煙スペースが撤去されると書いてあった。ご理解を求められていたが、ほかに吸える場所がなかったら理解なんてできないのではないだろうか。わたしは煙草を吸わない。

図書館に来たのは、本を一冊返すためだった。返却ボックスをつかってもよかったのだけど、あの返却機に本を返したかった。今回も案の定読めないタイミングでかっさわられ、あっという間に奥に消えていった。返す予定の本を弄びながら図書館をうろうろするのはなんだかスリリングだった。

身体をとおして得た情報をその日のうちに吐き出したいのは、わたしの容量の問題だった。いま変換したら「要領」と出たが、それもまあ間違いではないかもしれない。わたしはこの容量を(要領でもいいですよ)、水分の入ったコップにたとえる。壺でもいい。昨日も書いたように、吐き出さずにあまりに溜め込みすぎると詰まるもしくはあふれてしまう(昨日は「血管」にたとえたかったから、「詰まる」が残っている)。いつでも記憶と戦っているような感じだ。とりあえず手帳に書ければ勝ち。ブログにうまく書ければ大勝利。そんなに難しくないゲームだ。

さて、どんなものを情報とみとめるか。これもおそらくわたしの要領の問題だ。これは要領で多分いい。貧乏性なのか、なにか意味のありそうなことはこぼしたくない。これは勘の領分だし、言ってしまえばこじつけ能力の見せどころだ。家を出たところで変に大きなテリアと目が合ったこととか、女子高生の足が意外とむちむちしていて顔の小ささとアンバランスだったとか、なんだかそんな目にとまったことがなにか意味を持っているような気がしてしまう。けして神秘主義者ではないのだけど。その日のうちにこじつけられることもあれば、数日たって、数か月たって、数年たって、ここにおさまるやつだったのかと気づく。かもしれない。し、おさまらないで今度こそほんとうに流されてしまうこともある。たぶんね。

そういう蓄積になんの意味があるのかはよくわからないけど、そういうことに今ははまっているのだ。これはなんというか、「自分の感覚を信じる」ということをやっているのかもしれない。信じたうえで、年月経て「アレはコレだったんだ!」なんつって一人上手。な。