紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


物語的どこでもドアだ

物語はどうはじまったっていいのだ。昨日書いたことについて考えていて、わたしは自分の書いたものについて数日間は何度も読むし反復して、あれは違ったなとかよく考えたりするけれど、それを足掛かりにして毎日思考していけばいいので今のところ問題はない。オセロのようにひっくり返し続けたってかまわない。が、実際は毎日黒白変えているわけではなくて、少しずつ色を変えてちぐはぐな虹をつくっている。ような。何度も読むわりに、古いもののことはなんとなくしか覚えてなくて、読み返してこんなこと書いたっけと思ったりして、でも書きそうだよなぁって納得したりする。これだけ毎日取りこぼさないようにしているのに、とどのつまりがそれじゃあちょっと自分が可哀想な気もする。が、それはそれで愉快なのでいい気分だ。悪くない。そう、なんにでも物語へ続くドアがついているような気がして目を皿のようにしてしまう。物語的どこでもドアだ。しかし、どこでもドアだってあれは比喩みたいなもので、移動手段を提供するというよりは、「冒険」への近道みたいなものだ。そうすると、「ドラえもんの道具でひとつだけ何がほしいー?」「どこでもドア! それでギリギリまで寝坊する!」というやりとりはまったくもって不適当なのだった。

結局のところ、諸々の段階で取りこぼしは発生して、わたしにも余裕がなくなってきて、このゲームはいつか爆発するなと感じた。それが今日。

そのうち、覚えてることを網羅する遊びじゃなくて、忘れたことを網羅する遊びになる(けっきょく一緒!)。それは冗談として、その解決法として記憶の森を歩き回るような書き方はひとつあると思った。ひとつあると言ったが、いまのところ他は思いついていない。なんとなく未来に向けてそう書いてみた。

そんな今日。好きなミュージシャンが久しぶりにブログの記事をアップしていて、それが一年以上ぶりだと言っていた。ヒイヒイ言いながら毎日書きたいこっちをよそ目に、羨ましかった。たぶんそのうち書かないでいい日が来るのだろうなと思ったら、それもまた楽しそうだった。

今日もまた少し早く家を出て、図書館に行った。前日とおなじようにとても冷えた。朝に蒲団から出たときに、隣の人に信じられないという顔をされた。開館の5分後に着くようにしたので昨日よりは混んでいた。久しぶりの雑誌などを読んでわくわくしたが、仕事のはじまる時間がせまってきて切り上げなければならなかった。

最近はとくに名言がなかった。だじゃれが大好きみたいな話しかしていない。ほんとは看過できない発言があって、そのことをぼんやり考えていた。うーん。