紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


星を食べる

文体? - ビグルモワ

最近のこと。ちょっと方向性違いそうなので、倉庫っぽくつかってるブログに書きました。ご興味ある方は。長いよ(久しぶりに三千字超書いたけど、あんまり辛くなかった。発見)。

上記記事にはけっきょくわたしの好きな作家ベストスリーの名前が全部出ているので、ちょっと悔しい。そういうのを隠してミステリアスに書いていたかったのに。

文体についてはもう少し考えるだろうけど、今はちょっと飽きてきている。ブログを書くことについては、好きな作家よりほかのブログを書いている人たちから学んだ事の方が多い。素敵な文章だの面白い文章だの書ける人はたくさんたくさんいて、それをほぼリアルタイムで読めることはたいへん幸せだ。

このブログをちゃんと書くようになって半年と少しくらいなのだけど、記事の変遷がすごいのだ。あったことをただ箇条書きにするとか夕食のメニュー毎日書いてた時期とかありますからね。こんなんうけるんやろーとか。日記とはどんなものか模索していた。それについてはいろいろ試して蛇行して、なんとなく到達点が見つかった。たぶん。前回の記事の最後に書いたようなこと。まだ変わっていくだろうけど、ここから遠くには行かない気がする。

自分が歩いてきた道を思うと、わたしもこのウェブログも上手に育ってこられたなぁ、と。言い方が難しいのだけど、すごく注目されることもなく、わたしと読んでくれる人が作用しあってどうのこうの。20代半ば過ぎて文章うまくなることそんなにないって、さっき読んだ記事に書いてあったけど、わたしの実感としてはそんなことは全然なくて、どんどん上手くなれるよ! って思うので。上手くっていうか、自分が納得するものを書けるようになるというか。みんなのスターで成長するヨ! っていうとなんか安いゲームみたいだ。

ただ、文章に対する信頼っていう問題はたぶんあって。言ったら、わたしは文章でなんでも書けると思っている節がある。どんな心情も情景描写も。写真や絵や映像の方が何百倍も情報量があるといえばそうなのだけど。それを文章で体験していないと、表現できると思えなくて書けないかもしれない。文章で表現できるって思いつけない。そんでなんかいろいろが先細りになってしまうような。文体はその先にある話な気がする。

文体だのなんだのを問題にしてたのだけど、わたしが一番好きなのは文体でも表現でもなく、書いている人の身体を通じて言葉が紡がれるってことで。喜びでも苦悩でもなんでもいいけど、気分よくときに苦しみながら「その人が」書いてるってことにものすごくキュンとくる。人間に興味がある。けっきょくのところ、書いている人間込みで文章を愛しているのだ。これについては小説よりブログのが強い。きっと。だからやっぱり日記が好きなんだよなぁ、って。って。

ちょっと最近くま分足りないですよね。

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何言ってんだ。この人一番好きな作家、三島由紀夫ですからね。