紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


うまくいえたことがないやいやい

あんまり泣かないけど涙を流すのは簡単だとも思う。音楽を聴いたり、悲しいことを思い出したり、感極まって涙が出たりするけれど、それと感情はべつのことで、健康になるために泣いてるんじゃないかと思ったりする。

どこぞの国では葬儀のときに泣き女がやってきて、亡骸だかひつぎにしがみついてわんわん泣くと、昔なにかで読んだ。

名前を呼んでさようならと思いながら涙が出てきて、彼女に身体をあずけると背中をぽんぽん叩いてくれた。思ったより強かったけれどちょうどよかった。そんな濃厚接触じゃないのこのご時勢に。お元気でと行かないでは両方とも心からの気持ちで、たぶんもう会うこともないんだろうと思うと寂しかった。正しいことはわかっていて、無理をいっていることもわかっていて、演技の自覚もちょっぴりあって、とてもずるいことをした気持ちだった。綺麗に去ってもらうのがおとななんだろうと思いつつ、さらに形式を見せるのは悪いことのようにも思えた。負担になるのとならないの、どっちが負担なのかわからないではないですか。

職場の若い人の最近の口癖を教えてもらって、それは嬉しいときもつらいときも言うらしいのだけど、わたし(たち)にもそういう単語はあるけれど、家人とだけ通じる犬猫的な動物の名称なので言い控えていた。でもその直後に、わたしの心の中の犬が「わんわん!」とあっさり顔をだしてきて、言わなかったことが台無しになった。わたしの中の犬がたまに鳴くんで、よろしくお願いしますと職場の人に紹介した。「こいつです」と犬の絵を描いて渡した。しっぽをたいへんに振っていて善良そうに見えた。

わたしを見る会

まいにち、のことを考えている、毎日。

このめちゃめちゃさがなにも残らないなんて、せつな、せつなく、というかそんなわけなく、この日々にはまちがいなく手ざわりがあると思って、仕事を終えて外に出て、空を見上げたりしながら、それをたしかめている感じ。どう考えても豊かではないが今のところいとおしい疲れなのだった。

ついには年に2度くらいしか顔を出さなくなってしまった会に行き、人数も少ないこともあってか、けっこう自分のことをしゃべった。あんまり会わない人たちと自分の話を交換するの、わたしはけっこう好きだ。あんまり仲良くなりすぎるときびしい。お客様でいたいのかもしれない。とか。でもそもそもわたしの感じ方が変わっている可能性もある。

人が話し、それを確かに聴くということ、当たり前と思う一方で、そうでもない集団や場ももちろんあって、そういうときに自分の言葉を丁寧に聴いてもらえるって思いこんでいるの、傲慢なのかもなという気もする。歳を重ねると機微をつかむ目が粗くなってきて、それはそれで生きやすくなってるともいえるんだけど、若い世代に粗暴と思われるの嫌だなとかも思ってしまう(いやこっちのほうが粗いなりに丁寧なのか?)。そもそもだれもそんなこと気にしていないかもしれないが。

色々かきはじめると自分に拘泥しまくってしまってよくない。歩いているときとかお風呂に入っているときは思考がクリアで自分が利口に思える。今日はケーキを買ってこようと思って忘れてしまった。シュークリームでもミスドでもよかったよなんか甘いもののことを総称してケーキって呼んじゃう粗さ。生クリームの暴力的なとこ。