紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


旗を立てた

実家がなくなると思えば感傷的にもなるけれど、実際そこで暮らしたのは10年に満たず、その前に住んでいた木造平屋の雨漏りする家の方が長く住んでいたのだ。し、より幼い頃を過ごしたのだから思い出はそちらの方が断然多い。思春期をすごしたその家の思い出はほろ苦いのであった。なのだけれど、モノの量はすごい。よくもこんなにというくらいに溜め込まれ、崩しても崩してもぎうぎうに詰め込まれた箱が出てくるのだ。ここ五年くらいで帰省のたびに手を付けていたのに! だ!

とはいえ、その小さな一歩があったことにより、この度は取り組まなければならなくなったマジ大片付けが幾分は楽になったに違いない。あと、思春期を過ごした部屋を掘るとやべー物がでてくることに対する心構えができてた。と思う。

出てきたものについて詳細に述べることはしないけれど、とにかくぽんぽんぽんと悩むことなく捨てるものにしていく。悩むとしたら、どの方法で処分するか、可燃・不燃・金属・資源、みたいなことで取っておこうか迷うことはほとんどなかった。あったことも忘れていたものはないのと同じ、といったらそれは乱暴だねといわれた。

引き換え、現在暮らしている部屋では、捨てるかどうかで迷う。かなり迷う。捨てなくても整理して片付ければいいのでは、みたいな気持ち。未練がある。それはこれらのものが現在のわたしの領分にあるからなのだと思う。モノを持つこと、捨てること、なかなか難しい(いつも言ってるな)。でも片付けモードに入りましたので、すこーしは思いきって片づけております。

年末にやっと小沢健二のアルバムを入手して聴いた。包装をひらいて歌詞カードを見た時の印象は「文字多!」であった。聴いてみれば、なんだかちょっと説教くさいのではと思ったりもしたのに妙に耳に残り、何度も繰り返している。このたくさんの文字が音楽に乗ることにより軽やかになじむのだから、それはそれはすごいことだなあと感じ入ったりする。音楽の技術に詳しくないのだけど、かなりすごいんじゃないかと思っているところ。

空洞です

年末にめっちゃダークモードに突入してそのダメージをいまだ負っている。ダークモードのときは心が閉じていてめっちゃ落ち込む。でも思い返してみれば前は月に一度のペースでなっていたのだからしばらく平和すぎたんだ。そのときはすごく攻撃的な気持ちになるのが、だんだんと攻撃的だった自分を責める気持ちになって、表面上は元通りかもしれないけれど、自分に穴があいている気分だ。なんだかちょっと酸っぱい感じ。それで冗談をいったり笑ったりしてもなんだか違うのだ。わたしには穴がある。日常を繰り返しているうちに日々が降り積もってなかったことになるかもしれないけれど、それは正しくない気がしている。でも、それを謝るのは自己満足みたいな気もしている。

正しい/正しくないと謝罪行為は必ずしもリンクしない(しなくていい)という知見も得た。他人は他人だから安心する。なのに、目の前の人が自分みたいな気がして話しかけてしまう。でも他人だからそれがゆるせない気分もある。

B'zのLOVE PHANTOMの「ふたりでひとつになれちゃうことを気持ちいいとおもううちに少しのずれも許せないせこい人間になってたよ」という歌詞はこのことをいっているのだと思う。急な稲葉(さん)信仰。いらない何も 捨ててしまおう♪

年末年始は実家に帰っていた。(たぶん)例年より温暖で、気持ちもおだやかに過ごせた。めちゃめちゃな肥りもなく、実家嫌いが出なくてめっちゃ安心した。2019年はかなりハッピーに過ごしていて(思考の転回があったことも関係するのかも)、なかなかいいぞという感じであった。だからこそ最前のダークモードにやられちゃっている節もあるのだけれど。でも久しぶりのダークモード、落ち着いて考えられている部分もあり悪くないんじゃないかなとも思っているよ。2020年もよき年になるといいな。あんまり真剣にはならないでおくけれど。どんな年だって愛していきたい。