紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


マトリョーシカは

不思議だ。

筋肉痛はだんだん下に降りていく。腿から下って、膝上とふくらはぎに今います。階段のたびにイタタとうめく。足が動かない、というか曲がらないのに驚く。平地は膝を曲げないでもなんとか歩けるのだ。階段が嫌すぎてスロープを遠回りしたりエレベーターを使ったりしてしまう。登りはともかく下るのが俄然きびしい。

それでもこの電車に乗りたいと思えば足は動くのだから気の持ちようだぜという感じもある。いやはや。痛(つう)といえどこの筋肉のかたまりはごわごわは何であろう。固体がのしかかっている少し酸っぱいような感じがある。酢豚のパイナップルを想像してしまう。今回はなっていないのだけど、最上級の筋肉痛はそこが棒と化す。自分でありながら自分でない外側からも内側からも何も受け付けない。ただただ麻痺した部品を無理やりひきずっているのであった。そうした箇所を抱えて動いているとほかの部分にかかる負荷がそこを変容させていく。痛みが移動するのとは別に玉突き事故のように少しずつずれていくネジだ。その期間は自分が違う人形になったようで妙な気分である。各所が自分でないようなねじられているマトリョーシカは。

立夏

うっかり登山に行ったら筋肉痛になって、しばらくうんうん唸っている。ここ数日はぐったりとのんびりしている。山はよかった。しかし、経験からいうと平常に戻るまでに一週間ほど要し、そうならないためにはコンスタントに登る必要がある。登山のたびに前一日、後三日も休みをとるのはなかなか困難だ。連休のはじめに行って、残りを休養にあてることもできるが、何もできなくなってしまうので困ったな。体力をつけなくてはならない。山に登るための体力。

トーンポリシングの件、まだ少し考えていて、直前までは対等なつもりでいたのだ。むしろちょっと落とされていたように感じていたんだから、みたいなことを思い出してしまう。ささくれみたいな記憶は撫でているとキュウキュウする。黄色とピンクだ。まあでも根底には双方に疲れがあって、それさえなければお互いにオブラートに包んで行動できてたはずだよと思う。強者、強者か。

出かけたけど足の痛みで諦めて帰宅する。駅前まで行っただけの人になってしまった。コンビニで支払いとおいしいパンを買った。風が強くて高めの木がさわさわ揺れて、空は曇りよりの晴れだった。風はひんやりとしていたが、気温が高くなってきていて初夏の上ずりを感じた。風のない夜は虫が鳴きはじめている。春は完全に脱皮した。立派な夏のはじまりだ。音楽を聴きながら歩いていて、ヴォーカルごしの風の音に自分が無になってしまったようなきもち。空だったらよかったのに。ずっとずっとそんな気持ちでいたのに。