紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


ブログ

お花のこと、はたまた花火のことを考えていた気がしたのに忘れてしまった。あんまり自分自分ってなるの、やめたい。のは、他人の手を借りるのが手っ取り早いみたいだ。それも嫌いな人じゃなくて好きな人に会うのがいい。けれど、気にしてるのは自分だけなのかもという疑念がわいてきて、いやだめはいだめ考えるのやめ!! って感じでシャットダウン使っていくのも大事かもしれない。ひとりずもうはよくない疲れてしまう。

自分のブログ、一番好きなのは自分っていう自信がある。記事は書いた直後からずっと好きなのと、一晩経ってしまったなんてことを書いたんだというのと普通なのがあって、さらに書いたことをおぼえてるのと忘れてしまってるのがあって、忘れてしまったのをまた見つけると大体びっくりする。このびっくりにはすごいぞだったり何言ってんだだったりいくつかあるけど、気持ちが動くという点で感動とまとめてしまいたい。忘れてしまっているものとの再会の場合、しまったなんてこと書いたんだ記事も、というかそれこそ、感動的な出会いである。前世からの約束めいた、だって核心をついているんだもの、気持ちの中心を打ち抜くのだ。ヒュー。なんて書いてみたけれど、これは今適当に書きました。五割くらいで見てほしい。今日のわたしの適当さはするどい。

なんか、ブログ、好きなんだね、って思いました。これは、ちょっと、いよいよ、ですね。でも、好きですよね、ブログ。いい時代だ。

前にしか進めない(?)

Appleの? スマホの? 思想みたいなのをきいたときに、基本的に前にしか進まないみたいなことだったので、衝撃をうけた。終了のコマンドはなくて、できるのはホーム画面に戻ること、続けて他のアプリケーションを重ねていくことなのだ。当初はホームボタンを二度おして、アプリケーションを解放するのって一般的でなく、何もかも机の上に広げていくだけだったイメージ。それをして、過去は振り返らない(終了しない)、前に進む(アプリを重ねていく)のみ、と言っていた印象。もしかしたらアメリカ人みんなそうなのかもしれないけど。だから何だといわれれば困ってしまうが、時間は前にしか進まないのだからそれは正しい気もするし、適切に終わらせていく(終了の×をクリックするだけでも)ことをしていかないと、いつか机の上ごっちゃごっちゃになるでという危機感。適切に終わらせるのははじめることより難しいけれど(維持するのも難しいけれど)。

ふと、「あ、前しか見えてない」と思うことがあり、自分にしても他者にしても、そういう瞬間はあり、ふだん使用しているデバイスが思考に影響を与えているのかもしれないし、思考が先か、デバイスが先か、みたいなことを考えたりもするけれどまあどちらでもいい。わたしはその状態に気づかないでいるのは嫌だなと思うんだった。そんなこんなで「大」ばっかりとりすぎているゆえの弊害もあるなとも思うけどね。

 

いろんなことを濁して濁して書くせいでどこにもだれにも届かないなーんて気持ちになる。「大」をとりすぎるのはよくないけれど!(これはわたしがしている謙遜かつ牽制だから!) もーちょっと「大」をとってくれ! と思う思います思ってるたのむ、みんな!! 啓蒙というと偉そうだし、そもそもなにが一等かなんて言いきれないし、それでふわふわふにゃふにゃしてしまうのだった。ことが全部わたしひとりで終わればいいのになー。みたいな。みたいな感じです。