紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


今宵は今年のたったひと宵

人にもまれて、やっぱり人間ニガテだよね、と再確認する。でも、苦手だけど嫌いではなく、楽しい瞬間もたくさんあって、それにこの挑戦(いっても年に数日なのだし)がなくなったらますます人づきあいが億劫になって自分の想像力と戦ってるだけの意地悪なおばあさんになりそうなので、行けるうちは行っておこうと思うのだった。自分をやわらかくするために。でも大体はじめの数日はもー絶対来ん!!! と思ってるのでわたしの脳は騙されやすいというか阿呆というか楽観的なのだと思う。

 

星座占いをウェッブで読んでいて、わたしの星座を「明るく大胆でリーダーシップがとれて楽観的でわかりやすい」とか読み上げて、「嘘じゃん」と一蹴され。

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行きはじめてから三年になるけれど、メンツにもやっと慣れてきた感があって、とにかく苦手苦手苦手と思っていたあの人も「こーゆー人なんやー」と思えてきたり、この人だけが頼りだった人も今となっては口だけ野郎だなとか思っていたり、毎年発見があってよい。決まった人と知ってる人と毎年おなじことがあるのは深まる。子どもが成長していくのもよい。ほぼ変わらない中年期を生きている身としては(老いはあるけど)励みになる。

同じ、といってもまったく同じわけはなく、本当に今は今のためだけに今である、ということが沁みてきて、わたし泣けちゃうくらいなのだけど。蛇足ではあるけれど、「今という時は二度と来ない」に「だから大切にしないといけない」という足を与えたくはない。それは安易な評価だし、そうすると見栄えがよくなるための文だと思ってしまう。今が今であること、ただそれだけなのだ(いや、今今は大切で、「しないといけない」が説教くさくひっかかっているのかな)。

ともかく夏の一大事は終わって一安心。帰ってきて数日おそろしいほどにねむり続けてしまってこわい。一年のうちの百日くらいは一日ねむっている気がする。やっぱり夏は暑い。晩は涼しいのだけが救い。身体がつかれているのだと言いきかせる。生き急ぎたいという(ほとんど脅迫めいた要請だけれど)のと今を引き延ばしたいという願望の際の夏。から秋へ。

しんかする

文芸誌を久しぶりに読んでいる。『文藝』は文句なしに決めたんだけど、『すばる』は迷って、やっぱり買った。「はじまりの名前」という小説が三番目に載っていて、なんともいえずよかった。作品をみるときの「面白い」と「好き」について最近よく考えるが、ともかくわたしはこの小説が「好き」だ。それはわたしのあり方と似ている部分があるからで、人によったら全然好かんのだろうとも思う。でもその人もわたしとは別の観点でそれを「好き」と評することもあるだろうな。

すばる 2016年8月号〔雑誌〕

すばる 2016年8月号〔雑誌〕

 

それで、出てくる男が気を紛らわせるために、集中できないときとかに、ボードゲームをするという描写があって、わたしも脳をスッキリさせたいのだと思いついて、小説をどうにか最後まで読んでからジグソーパズルを引っ張り出してきた。時間がないのがわかっていたので300ピースで北斎の浮世絵のパズルにした。富嶽三十六景(変換でなくて愕然とする)の、いろんな富士がかいてあるやつ。ピースをしらべてはめ込みながら、これって本当によく観察するから、スケッチと同じで、色のうつりかわり、こまかなノイズの入り方、人為的な枠線なんかのすべてがヒントとなってやってくる。あ、そう、ノーヒントでと思って、見本を伏せてやったのでした。だから余計に。

分不相応とわかりながらもう少しパズルを増やそうとする。同居人はパズルが苦手だからいい顔をしないだろうな。かしこい人はジグソーパズルをやるでしょうという思い込みは打ち砕かれた。か、かれがかしこくないか、だけれど。実家ではパズルは父親と妹たちが専門家だった。

感傷にひたってものを増やすこと、かしこくないなと思うのだけど、ひたらせてよ、とも思う。だれも引き継がないのなら形見分けみたいなものでもあるし。抱え込むことはこわい、が持っていきたいものもある。前の代からもらうものと自分の代で得た形質をまぜながらだよなぁ、とか。とかとか。