紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


今宵は今年のたったひと宵

人にもまれて、やっぱり人間ニガテだよね、と再確認する。でも、苦手だけど嫌いではなく、楽しい瞬間もたくさんあって、それにこの挑戦(いっても年に数日なのだし)がなくなったらますます人づきあいが億劫になって自分の想像力と戦ってるだけの意地悪なおばあさんになりそうなので、行けるうちは行っておこうと思うのだった。自分をやわらかくするために。でも大体はじめの数日はもー絶対来ん!!! と思ってるのでわたしの脳は騙されやすいというか阿呆というか楽観的なのだと思う。

 

星座占いをウェッブで読んでいて、わたしの星座を「明るく大胆でリーダーシップがとれて楽観的でわかりやすい」とか読み上げて、「嘘じゃん」と一蹴され。

f:id:letofo:20160813191121p:plain

 

行きはじめてから三年になるけれど、メンツにもやっと慣れてきた感があって、とにかく苦手苦手苦手と思っていたあの人も「こーゆー人なんやー」と思えてきたり、この人だけが頼りだった人も今となっては口だけ野郎だなとか思っていたり、毎年発見があってよい。決まった人と知ってる人と毎年おなじことがあるのは深まる。子どもが成長していくのもよい。ほぼ変わらない中年期を生きている身としては(老いはあるけど)励みになる。

同じ、といってもまったく同じわけはなく、本当に今は今のためだけに今である、ということが沁みてきて、わたし泣けちゃうくらいなのだけど。蛇足ではあるけれど、「今という時は二度と来ない」に「だから大切にしないといけない」という足を与えたくはない。それは安易な評価だし、そうすると見栄えがよくなるための文だと思ってしまう。今が今であること、ただそれだけなのだ(いや、今今は大切で、「しないといけない」が説教くさくひっかかっているのかな)。

ともかく夏の一大事は終わって一安心。帰ってきて数日おそろしいほどにねむり続けてしまってこわい。一年のうちの百日くらいは一日ねむっている気がする。やっぱり夏は暑い。晩は涼しいのだけが救い。身体がつかれているのだと言いきかせる。生き急ぎたいという(ほとんど脅迫めいた要請だけれど)のと今を引き延ばしたいという願望の際の夏。から秋へ。